小説「暗転」~帝王が愛した女~ 19

《第三章 瓦解》

 

寂滅(じゃくめつ)

 

 

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 1997年から1998年にかけて金融機関の破綻が相次いだ。バブルの清算が本格的に始まったのだ。金融ビッグバンも同時に起き護送船団方式が事実上崩壊した。タクシー業界には逆風が吹いていたが、現金商売であるがために売上減少によるダメージを感じにくくしていた。2000年問題やITバブルの芽がこの時から生まれていた。

 はじめは、福祉タクシーと修理工場の業務拡大を急いでいた。福祉タクシーチケットの取り扱いと各区に対する請求業務が完璧にできていなかったにも拘わらずだ。洋子もはじめての業務なので戸惑った。顧問税理士の赤池に相談しても自分で考えろという返事だった。まず営業所の事務員に集計してもらい、PCに入力してからチケット現物を本社に送付してもらうように仕組みを作った。入力内容と現物の確認が終わったら月末で締めて各区に請求をかけるのが一番合理的だと考えた。福祉タクシーは観光バスの事故で傷ついたフェニックスタクシーの信用を十分回復させた。利用者増加のために各区ともPRに余念がなかった。タクシー車体にも福祉タクシーの宣伝を貼り付けた。認知度を上げる必要があるからだ。はじめは営業活動に励んだ。しかし、病気の後遺症とも言うべき猜疑心と精神的な不安定さからは完治していなかった。

 福祉タクシーは病院への送り向かいがほとんどなので、距離的に短距離が多く売上と利益に貢献はしなかった。イメージアップには貢献しても低迷するフェニックスタクシーの起爆剤にはならなかった。修理工場はなんとか採算ラインを超える見通しが立ってきた。近隣の中小タクシー会社からの注文が増えたからだ。

 金融機関とりわけ東部信金から貸付金の一部返済を求められていた。商工銀行からは東部信金に返済するのならプロラタで当行にも返済してほしいと要請があった。はじめは、しばらく考えさせてくれと回答した。返済を実行するのには、どこか営業所を売却するしかなかった。売上減少がピーク時の売上高の3割減というのが、金融機関に印象が悪かった。なんとかしなければいけないと焦りだけが先走った。

 はじめは、赤木を連れて銀座のクラブ「deep sea」に出掛けてみた。相変わらずボクシング事業の売上が立たないことに苛立ちを感じ始めていた。「ママ、水割り二つ。」「ご無沙汰してますね、社長。復活なんていう記事見ましたよ。景気はどうですか。」「いいわけないだろ。だから、ここに来たんだよ。」「お酒いいんですか。お体に障るんじゃないですか。」「少しくらいなら問題ない。前からだってそんなに飲まなかっただろ。」赤木は悪そうにこう言った。「社長、すいません。ボクシング関係でお役に立てなくて。」「今、業績も悪化してきているから早急に売上を立ててほしい。金融機関からも突かれている。ボクシング事業から撤退したらどうかと。」「ママ、これからの日本経済をどう見てる。」「そうね。バブルの清算が始まってきたから不景気になるのは間違いないわ。いつ回復するか見当もつかないような不景気ね。うちもお客さんが減っただけじゃなく、回数も減ってきているから。もし、景気のいいところがあるとしたら、大手の上場会社の役員の方が言ってたけど、インターネット関連じゃないかしら。若い人たちの間で起業ブームがあって元手が少なくて済むからということでインターネットの会社を立ち上げている人が多いそうよ。その中で何社が抜きんでた会社があるそうだから。そして上場して大金を手にしてやるとか言っているらしいのよ。今の若い人たちは凄いわね。どうやって売上が立つのか今一理解できないし、わざわざインターネットで調べなくても、テレビや新聞、雑誌で情報は入手できるし、買い物だってお店で買うのが一番安心できるでしょ。いつまで続くのか分からない怖さがあるわよね。大手だってみな赤字だそうだけれども。」「そうか。そんな状況なんだ。それじゃもうタクシーは斜陽産業なのかな。次に打つ手がないんだよ。売上を回復させるだけの起爆剤になりうるサービスが思いつかない。いたずらに規模を追求しても売上は伸びても利益が出ない。むしろ赤字になる可能性が高い。」赤木がはじめに言った。「ここは焦らず地道にやるしかないですよ。大手も買収を繰り返しているようですが儲かっているとは聞きませんよ。」

 だれと話しても打開策は生まれなかった。洋子は普段通り日常業務をてきぱきとこなした。営業所に出向いては職員、乗務員と積極的に会話した。整理整頓というパネルも作成して各営業所に貼った。周りからはよくどうして結婚しないのと聞かれることが多かった。決まって返す言葉が、「結婚には失敗しているのでもうこりごりです。」美人なのにもったいないというのが一致した意見だった。洋子の特集記事の騒ぎも一瞬だったのでプライベートに問題は起きなかった。時代の変化の方が急であった。

 2000年にはITバブル、金融機関の統合など負の清算と新しい産業の芽生えという新旧が交錯した年だった。フェニックスタクシーの売上高も4割も低下し60億円強にまで落ち込んでいた。金融機関からの要請も日ましに強くなってきたので、断り続けるのが困難な状況になっていた。赤池の仲介で、四大タクシーの一社が荻窪営業所を高く買収したいという情報を入手していた。このことを赤池といっしょに商工銀行新宿支店に報告に行くと是非とも進めて欲しいということになった。営業権も含めて20億円で売却された。そのうちの仲介手数料は3%だったので6000万円を赤池に支払った。銀行には15億円が返済された。残りは税金資金として残した。120台分のタクシーがなくなったのでフェニックスタクシーはタクシーが437台、ハイヤー2台の計439台の保有台数となった。稼働率は8割なので決していいとは言えなかった。一時は607台を誇り1000台へ向けて拡大という時もあった。15億円を返済してもまだ30億円が残っていた。

 この辺りからはじめはまた周囲に当たり散らすようになった。それに追い打ちをかけるように、米国ITバブル崩壊の余波が日本にもやってきた。2001年の出来事だ。渋谷や恵比寿にネットベンチャーが創業し一時賑やかであったが瞬時に閑散とした通りに様変わりした。更に、タクシー業界に至っては、時の総理大臣の意向で、タクシーの規制緩和をすすめる、道路運送法「改正」法案が2002年2月1日から施行された。これによりタクシーが大幅に増車され街に溢れ出した。客は掴まらない、低料金のところも出て価格競争になったりと儲からなくなってしまった。さすがのはじめも大きなストレスを抱えた。賃金体系も良かった頃の体系なので、このような事態を想定して作られていなかった。したがって、売上高に対して、乗務員に対して支払われる賃金が残業代、深夜手当を除いて63%になっていた。この他には法定福利費も発生するので業績を一層押し下げた。

 病気の後遺症、経済の後退、規制緩和による売上と利益の減少と、はじめの精神は極度の緊張感に包まれていた。赤木を連れ立っては、銀座のクラブ「deep sea」に行って酒を飲んではプレッシャーを紛らせた。酒では何も解決しないのに。

 2003年になると個人タクシーで廃業を考える人も出てきた。フェニックスタクシーも売上高が50億円割れまで悪化した。タクシーで生計が立てられないと感じた乗務員で、工場の作業員へ転職する人も出始めた。ここにきて乗務員の減少と新規の応募の減少のダブルパンチをくらった。以前のはじめであれば歯切れよく対応していたが、やはりまだ完全には回復していなかった。はじめにとって、相談できる人も信頼できる人もいなかった。

 洋子は、そんなはじめの様子を知って熱海にお墓参りに行くことを提案した。はじめも了解した。「ここに来ると嫌なことが全部忘れさせてくれる。笹岡さん、今当社には逆風しか吹いていない。社長として情けないがどうして切り抜けたらいいと思う。正直私には、どうしていいのか全く分からない。」「やみくもに賃金規定の改定をやってコストを削減しても、退職者が出れば逆効果になります。私にも分かりませんとしか言えません。今は耐え凌いで、時期を待つしかないのではないでしょうか。」はじめは、父親の墓前で思いっきり洋子を抱きしめキスをした。許されるものではなかったが、心がそうさせた。洋子はそのことを責めなかった。熱海日金山霊園は静かに二人を見守った。

 

 

 

 

小説「暗転」~帝王が愛した女~ 18

《第三章 瓦解》

 

玉響 (たまゆら)

 

 

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 1996年この年は、不幸が二つ重なった。それは、はじめの母あきなと洋子の祖母が相次いで亡くなった。この時ばかりは、はじめも落胆し仕事に身が入らなかった。納骨が終わった後はじめは洋子を連れて熱海日金山霊園に再びやってきた。「突然どうしたんです?私より赤木さんの方が良かったんじゃないですか。」「何となく君と一緒に来たかったから。そんな気分なんだ。なんか話してよ。意地悪しなくてもいいだろ。」「そうですね。天気もいいし、青い空に青い海。とにかく気持ちいいですね。」「本当にそうだ。来て良かった。会社にいると気が滅入るから。」「そうなんですか。そんな風には見えませんけど。社長は何でも自分の好きなようにやられているから満足なんだろうと思ってました。」「そんな風に見えるの?」「ええ、とてもワンマンに見えますけど。」「相変わらず遠慮ないな。」洋子ははじめと昔のように会話できたことに驚いた。最近のはじめなら絶対に怒ってくるようなことでも上手く交わすような会話だった。しかし、今日はここで会社の話はやめようと思った。はじめとの今この瞬間を楽しもうと思った。珍しく運転手なしの自分でベンツを運転して熱海までやってきた。「社長、どうしてご自分で運転しようと思ったのですか?」「今日、ここに君と来ることは啓子には話してないんだ。変に心配させたくないからな。」「その方がかえって心配しますよ。何かする気なんですか。」二人は久しぶりに大笑いした。「やっぱり、君とここに来て良かった。退院してからというものの、何か心にモヤモヤしたものを抱えながら生きてきたから。それは晴れることのない感覚なんだ。記憶に連続性がないというか、時折自分で何を言っているのか分からなくなるときがある。自分のことばかり喋って悪いね。君だって、おばあさんが亡くなって辛いときに。」「社長とは、色んなところで重なり合いますよね。でも、祖母の死をきちんと見届けることができましたし、それに大事なことを頼まれました。」「差し支えなければ聞かせてくれないか。」「どんなことがあっても、自分からフェニックスタクシーを辞めてはいけないって言ってました。そして、辛いことがあっても逃げないでがんばるのよ。」「そんなこと言ってたのか。」「もうすぐ死ぬというときの最後の言葉でした。祖母は祖父のことをとても愛してましたから。祖父が亡くなる前に、朝鮮から命からがら逃げてきた様子を語ったそうです。その時、社長のお父さんに助けられたというのがとても印象的だったそうです。」「何か、とても重い話だな。今の私ではまともに受け止められない。」洋子は、微かにはじめが昔のように戻れるような気持ちになっていた。

 

鬼謀(きぼう) 

 

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 はじめの母親の相続税関係は、顧問税理士の赤池が担当した。億を超える資産額なので国税庁が対応するだろうと言っていた。報酬についても顧問をしているので格安に対応すると言っていた。申告・納税は実際のところ来年になるが、前もって報酬を払ってほしいと赤池は言ってきた。金額は1000万円。洋子は別の税理士にも確認したところ、500万円が相場ではないかとの返事がきた。そのことをはじめに伝えたが、「開業したばかりで大変だろうからいいじゃないか。会社の経費でなんとかしてくれ。経費で処理できない部分は私個人が支払うから。」止む無く洋子は指示に従った。赤池は更に、フェニックスタクシーの業績が低迷していることもあって、フェニックスタクシーの顧問税理士を解任して自分を顧問にしてもらえないかとはじめに相談した。洋子からも業績の低迷に対して、何かしらか手を打たなければいけないと言われていたので、応じることにした。はじめは洋子を呼んで、長年フェニックスタクシーの顧問をしていた税理士を解任するよう命じた。

 洋子は顧問税理士を本社に呼んで事情を説明した。最初のうちは税理士も驚いていたが、業績を回復させる手段はどの税理士も持ち合わせてないのではと言っていた。会社経営は、基本的には経営者が考えてやるべきことで、税理士は数字上の論点を指摘するのが精一杯でしょう。丁寧で温厚な方だった。経理部員にも親切に指導をしてくれていた。悟の代からの税理士がこの会社を去った。

 赤池は更に管理部長の岸を更迭するようにはじめを言い包めた。ただ業績の集計しかしない人に出す給与はないということだった。代わりにもっと安い給与で仕事ができる人を紹介すると言ってきた。はじめは、洋子に相談した。「赤池さんが岸部長を更迭した方がいいだろうと言ってきている。どう思う。」「確かに、銀行出身で真面目な人ですが仕訳とか経理業務が分かる方ではありません。しかし、顧問税理士を解任したばかりで更に管理部長まで交代させるのは性急すぎます。赤池先生の意見を聞くのはいいと思いますが、社長の会社なんですからもう少しお考えになった方がよろしいと思います。」はじめは、岸部長の更迭はしばらくは見送ることにした。

 1997年5月になると1997年3月期の決算が見えてきた。売上高は70億円台と相変わらずタクシー部門の売上減少が顕著であった。それにハイヤー部門、観光バス部門、ボクシング部門の赤字部門をタクシー部門の黒字が補っているに過ぎなかった。洋子は、観光バス部門の撤退を強く進言した。せめてこれだけは止めさせることで赤字部門を減らしたかった。はじめは、洋子の進言通り年内で観光バス事業から撤退することを決定した。それと同時に洋子に管理部長就任を打診した。洋子はこれを引き受けた。岸部長は静かに会社を去った。赤池は、洋子の下に誰か管理職で補佐役を入れた方がいいと言ってきたので洋子の下ならばいいと言って了解した。着々と赤池は楔をフェニックスタクシーに打ち込んできた。

 不動産協会の会合に出席した時に、会員の方から顧問税理士とかはどちらにしてますかという話が出た。赤池コンサルティングファームにしていると回答すると、後で話がしたいと言われ会合が終わってから銀座のクラブ「deep sea」で話をすることにした。そこで聞かされたのは、彼の顧問先が倒産寸前の会社ばかりで資産を売却しては高額な手数料を取っていること、またその会社の価値を最小限に見積もり、株式を自分に譲渡させ第三者に転売することで利益を上げている税理士であることだった。はじめは、社長に就任したばかりの経験や慎重さが抜け落ちていることに気づいた。これからは用心深く人と接しなければならないとこの時は思った。

 実際に赤木や赤池と話すと、人の好さそうなことばかり言うのでいつしか用心深さも解かれていった。洋子は管理部長に就任すると今まで以上に精力的に仕事をこなし、営業所管轄の警察署や消防署の会合に出席した。その中で病院向けの福祉タクシーが出来ないか相談された。とても意義のある仕事だと考えはじめに相談した。はじめも了承してどのようなスキームで実現させるか、東京都全体でやるべきではないかとか久しぶりに建設的意見を述べ洋子に調整を依頼した。洋子は嬉しかった。また、はじめと業界に先駆けたサービスを展開できることを。必死に調整に翻弄した。東京都からスタートし23区を回り三多摩区全体を歩いて回った。各区がそれぞれフェニックスタクシー用の福祉券を発行し、それに基づいて割引額が決定され、後日フェニックスタクシーの口座に振り込まれる仕組みだ。共通券にしたかったが各区市町村で割引額が違うことから、やむなしとした。タクシー福祉券は1998年1月からスタートとなった。業界新聞の一面に次のように記載された。「フェニックスタクシー復活。タクシー福祉券導入で路線バス以外の高齢者向けのサービスを開始。」そして、久しぶりにはじめはこの記事の中でコメントした。「お待たせしました。やっとフェニックスタクシーらしいサービスをご提供できます。事故があったりして皆様に多大なるご迷惑とご心配をお掛けしてしまいました。これを糧に皆様に貢献できるサービスを打ち出して行きたいと思っております。まだ、体の方は本調子ではありませんが仕事をしながら治していきたいと考えております。引き続きフェニックスタクシーをよろしくお願いいたします。」

 大手四社は驚愕した。死んだと思っていたフェニックスタクシーの岩城社長が息を吹き返してきたからだ。業界トップの大日本帝国自動車の海鍋がこれを許すわけがなかった。早速、フェニックスタクシーを潰すために動き始めた。赤池にも近づき内部事情を教えるよう迫った。海鍋は、まだ記憶が完全に回復していない上に人間不信のところが強いからそこに付け込むよう指示した。岩城の名前が業界誌に載るのが堪らなく許せなかったからだ。

 はじめは、練馬営業所に修理工場を併設させた。中小のタクシー会社では修理工場を外注しており修理にかかる時間が掛かっていたからだ。自社もそのことでは悩んでいたので経験者を工場長に採用してスタートさせることにした。その認可に関して関東運輸局へは洋子が手続きをした。大手四社はすでに自社に修理工場や燃料の充填基地をもっていたが、まさかフェニックスタクシーが進出してくるとは思っていなかった。修理工場は1997年にサービスを開始した。周囲のタクシー会社や個人タクシーの利用が数多くあった。タイヤやパーツなどのストックを持たねばならず、運転資金が必要であった。バブルが崩壊したと言っても簿価の低い土地と黒字でキャッシュフローのいいタクシー会社はまだ融資を引っ張ることができた。当面は1億円を借りた。貯蔵品の管理と売上原価の関係は、洋子に任せた。洋子は貯蔵品管理の新しいソフトを導入し会計ソフトと連動させた。赤池が送り込んできた経理課長の金井は、あまり経理のことが詳しくはなかったが真面目に入力はやっていた。時折、洋子に歯向かってくることがあったので使いにくいと感じる時もあった。修理工場の在庫管理を彼に任せた。少し心配もあったが任せてみることにした。赤池もそれを聞きいいことだと言っていた。

 少しずつであったが、はじめの経営者としての資質が戻りつつあったので、このまま誰にも邪魔されずに時間が過ぎて欲しいと洋子は願うようになっていた。

 

 

 

 

小説「暗転」~帝王が愛した女~ 17

《第三章 瓦解》

 

開闢(かいびゃく)

 

 

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 1994年、フェニックスタクシーの業績は下降線をたどる一方だった。既に100億円を超えていた売上高は80億円台になっていた。フェニックスプロモーションは、一円たりとも売上を計上することなく、ただ経費の垂れ流しが続いた。それに対して、洋子は顧問税理士の赤池に相談した。「この会社をこのまま存続させれば、取り返しのつかない事態になります。先生の方から社長に進言していただけないでしょうか。」「笹岡さん、社長はそれでもいいとおっしゃっているから仕方ないですよ。私たちは、雇われの身なのだからそれに従うだけです。フェニックスプロモーションだってできて間もない会社なんだし5年は様子を見たらどうですか。あまり性急に結論を出さないほうがいいですよ。」

 観光バス事業は、あの事件以来都内の観光だけしか仕事の依頼がこなくなり慢性的な赤字事業になっていた。大手四社は積極的に販路を拡大していった。はじめは、退院してからというもの、タクシー関係者の会合には一切出席しなくなった。会社の内部に籠るような人間になっていた。以前なら自分の知らない業種の方たちとも精力的に会うようにしていた。はじめの口癖も「そのうちなんとかなるから焦るな」になった。病気後はじめは全くの別人になってしまった。赤木は世界的なプロモーターという触れ込みだったが、キューバ大使館やベネズエラ大使館にツテがあった。その関係で大使館のハイヤーをやれないかとはじめに話を持ち込んだ。はじめは、即座に了承した。直ちに、練馬営業所にハイヤー事業部を作らせた。もちろん洋子は反対した。馬込でうまく行かなかったからだ。ハイヤーは構造的に儲からないのをはじめも理解していたはずだ。はじめは、ボクシング事業で売上がたたないことを気にして、赤木が見つけてきてくれたビジネスを形にしたかっただけだ。洋子が心配して助言しても聞き入れてはくれなかった。

 練馬営業所のハイヤー担当は鍵谷課長になった。社長からの信頼も厚い男だった。ハイヤーは2台でスタートした。はじめ自身もそれ以上増やすつもりはなかった。大使館用ということで車種はベンツにした。かつての斬新さはないが、歯止めもなくやるわけではなかったので、洋子は取り敢えず様子を見ることにした。はじめも人の意見に耳を傾けなくなったので、会社内は閉塞感が出始めていた。裸の王様に、はじめは成り下がっていた。まるでフェニックスタクシーの独裁者のような振る舞いだった。

 月に一回の所長会議は、業績の報告だけに終始し、現状打破のための建設的意見はなにも出なかった。このような状態がしばらく続いた。相変わらず、プロモーターの赤木と銀座のクラブ「deep sea」には入り浸っていた。「やっと社長にいい報告ができそうです。キューバの世界チャンピオンと日本の世界ランカーのタイトルマッチが後楽園ホールでできそうです。もちろん、フェニックスプロモーションでマネージメントします。世界チャンピオンは私が呼んでます。ボクサーパンツに当社の社名を入れて宣伝できます。あまり儲かりませんが、名前だけは売ることができます。テレビ中継も決まってます。」「それはいい報告です。内部で悪くいうのが多くなってきたからちょうど良かった。乾杯しよう。ママ、ドンペリをお願い。」「社長、ドンペリだなんて久しぶりね。なにかいいことでもあったの。」「やっと、ボクシングのプロモートができそうなんだ。」「赤木さんが貢献したのかしら。」「そうだとも。これをきっかけにフェニックスタクシーの反撃開始と行こうじゃないか。」赤木は話を続けた。「社長のところにいらっしゃる笹岡さんは、かつてブリザードというバンドでボーカルをやっていて有名な方だったという話を芸能プロダクションの方から聞きました。その後の彼女ということで、特集記事を組みたいそうですよ。どうしますか。上手く私が間を取り持ちますが。」「そうか、そんな話があるのか。彼女に聞いてみよう。承諾するかな?」はじめは、仕事一筋で生きてきた男なので世間知らずであった。「deep sea」のママと赤木は出来ていた。はじめから巧妙に自分たちにお金を還流させるための罠を張り巡らせていた。ボクシング事業の売上は全く計上される見込みがなかった。疑問を持つものが多かったが、そのことを社長に伝えると解雇された。フェニックスプロモーションにお金が合法的に流れるような仕組みができたばかりに、フェニックスタクシーの業績も低迷さに拍車がかかった。

 1994年10月後楽園ホールで世界戦が行われ、はじめは有頂天だったが、収支は散々たる結果であった。洋子は、世界戦の収支結果を社長に報告した。「世界チャンピオンに対する協賛金300万円とプロモート手数料の差し引きだけでも200万円の赤字です。手数料が100万円しか入らないのならやる意味がありませんよ。」「差し引き200万円で会社名が世間に売れたなら安いもんじゃないか。」「そういう問題じゃありません。その他会社の業績も見て下さい。このままでいくと10年後は赤字に転落してしまいます。」「まだ黒字ならそんなに慌てなくても大丈夫だよ。それと君さえ良ければ、君の特集記事をやりたいという話が来ている。会社のために協力してくれないか。」「もう芸能界を捨てた身です。それでも社長が受けて欲しいと言われるのであれば、会社のために受けてもいいです。その代わりもっと真剣に業績のことを考えて下さい。」「分かった。久しぶりだな。君と喧嘩せずに話ができたのは。赤木が持ってきた話だから、君の了承を得たと伝えるよ。」洋子は、赤木の名前が出たので少し不安になった。

 洋子は34歳になっていたが華のある女だった。バツイチだが配慮があり人気もあった。おまけに独身を貫いていた。男の噂が珍しくない女だった。

 取材は11月下旬からはじまり12月上旬まで続いた。本社と丸の内、晴海ふ頭で写真撮影が行われた。フェニックスタクシーの車も写真には収められ、必ず洋子とセットで写された。新年号の特集記事になる予定であった。

 年が明け、洋子とフェニックスタクシーが載った特集記事が出ると瞬く間に時の人になった。はじめは、自分のことのように喜んだ。問い合わせも無線室にも入る有り様だった。いくばくか売上に貢献した。その裏で赤木は出版社からの手数料をピンハネしていた。このような話題づくりも業績を変えるには力不足であった。そんな中で、阪神・淡路大震災が1995年1月17日に起きた。だれにも予測がつかない出来事であった。洋子の話題も一瞬にして打ち消した。

 その後もボクシング事業も観光バス事業も赤字のままダラダラと続けられた。ただ惰性で経営を続けていた。タクシー事業の売上は毎年3億円ずつ減少していた。

 ハイヤー事業では担当の鍵谷課長が、乗務員に支払われる給与を実際よりも少なく支払い、差額を自分の懐に入れているのが判明し事件となった。鍵谷は懲戒解雇となった。はじめが信頼していただけに相当ショックが大きかった。今までは、移動に電車か自社のタクシーを利用していたが、もう一台自分用のベンツを買い乗務員から気に入ったものを社長の運転手とした。

 もうそこには、かつてのタクシー乗務員の地位向上を考え、お客様の利便性を考えてダイナミックに経営をする姿勢はなかった。タクシー料金の決済は現金が主流だったが、大手四社はクレジット決済も可能な端末をこの年から導入しはじめた。関東無線もこれに追随した。この情報がはじめの耳に入っても、はじめはクレジットカード決済にすれば、それだけ資金回収まで一か月以上かかる上、手数料も取られるから必ず後悔することになると言って相手にしなかった。しかし、乗車の際にはクレジットカードが利用できるかどうか聞いてくる客が増えてきていた。フェニックスタクシーは相変わらずの現金決済だったので乗車の際に断られるケースも出始めていた。決済方法がこれからは多岐に渡ると、大手四社は既にマーケティングにより結論づけていた。決済端末は1台当たり20万円はかかるが、必要な設備投資と考えた。はじめは、決済方法が多くなったところで売上があがるわけではないのだから無駄な投資だと考えていた。確かに、その通りであったが、洋子はその時はじめの経営の弱点を痛感した。守りに弱い経営なのだと。売上げを上げるための方法とは言えないが、クレジットカードが使えないことによる機会損失について考えを及ぼすことができなかった。洋子は、はじめにそのことを伝え、いずれ売上を押し下げることになるので、今からでも遅くないので導入すべきだと進言した。しかし、はじめは取り入れなかった。業界を牽引していた岩城はじめではなくなっていた。

 バブル崩壊の余波は、タクシー業界、とりわけ中小の企業には重くのしかかっていた。不動産投資にどっぷり浸っていた経営者も多数おり、倒産しそうな会社が続出した。クレジットカード端末機の導入も出来ないところは大手四社に買収されていった。そうしてますますフェニックスタクシーとの差は開いていった。はじめはただ傍観するだけだった。

 

 

 

小説「暗転」~帝王が愛した女~ 16

《第三章 瓦解》

 

永劫(えいごう)

 

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  はじめはしばらくの間は、聖路加病院に入院しリハビリを受けた。上手く言葉が出てこないことにもどかしさがあった。何かがつかえて出てこないのだ。懸命に、思い浮かぶことを言葉に出しきろうと思い、通じる言葉になるまで言い続けた。毎日2リットルの水分補給もした。適度な運動も欠かさず行った。そして、大分言葉が通るようになった時、医師の許可も出たので退院することにした。自宅でのリハビリも考えたが、会社に出社してすることにした。呂律が回らない部分もあったが、恥ずかしくはなかった。

 久しぶりの出社だった。「社長、おはようございます。」洋子が挨拶に来てくれた。「心配をかけたが、もう大丈夫だ。少し呂律が回らないところがあるくらいだ。」洋子は、リハビリに献身に寄り添った。でもなぜか以前よりよそよそしいというかはじめとの距離を感じていた。それは、洋子だけではなく会社内の従業員はみな感じとったいた。そして妻の啓子や直久にも同様であった。観光バスの事故のことで洋子ははじめと打ち合わせをした。損害賠償額が約1億5千万円になるという話をしてもただ頷くだけだった。「共済を使いますので会社の負担は少なくて済みます。ただ、共済契約更新の際は、共済料が高くなりますが。」前ならもっと突っ込んできて、詰めがあまいと言われたものだが、そのような精鋭さがなくなっていた。病み上がりだから仕方がないと思った。「その他入院中に変わったことはなかったか。」「強いて言えば、斎藤取締役に代表取締役がついて社長がお留守の間決済をしてもらいました。奥様と協議の上決定致しました。」「勝手にどうしてそんなことしたんだ。」「社長が入院なさって意識を失っている間、会社の運営がストップしてしまいます。緊急避難的な措置です。」はじめは、珍しくあたりにある物を投げた。昔ならそんなことはしなかったのに。はじめの変化は、会社だけでなく家でも起きていた。「啓子、お前は斎藤とできているのか。」「何をばかなこと言ってるの。あなたしか会社の決済できる人がいなかったからでしょ。」「お前がおれの代わりに社長をやってくれればそれで済んだじゃないか。」「あなたは、フェニックスタクシーの筆頭株主。お母さまも株主だけど臨時株主総会を開いて私を役員にし代表取締役にするのには議決権数が足りなかったの。顧問弁護士の先生に確認のうえ対応したのよ。取締役会を開いて、復帰したから斎藤さんには今まで通り取締役で頑張ってもらえばいいでしょ。斎藤さんもなりたくてなったわけじゃないし。」「そうだな。そうする。」今までのはじめと違って怒りっぽくなっていた。直久にも辛くあたりはじめていた。いわゆるDVの兆候が出ていた。啓子は、やはりはじめの言動に違和感を感じていたので、一週間に一度は通院し薬を調合してもらっていたのであらかじめ担当医に相談しそれとなく診断してもらうことにした。そして、ある日啓子は医師に呼ばれた。「奥様、ご主人は軽度の記憶障害になっています。記憶の断絶が起きています。名前とか顔とかはほとんど覚えていると思いますが、脳梗塞で倒れられたあたりの数年前の記憶からたどたどしい状況です。思い出せることと思い出せないことがあるようです。そういう患者さんに多いのは、被害妄想が強くなるということです。今まで物に当たらなかった人があたったり、大声を出して騒いだりとかの症状があると思います。」「先生、もうすでに出ています。治らないのですか。」「時間はかかると思いますが治る場合もあります。それまで周りの人が耐えられるかだと思います。もしかしたら全くの別人になったような感じだと思いますから。」「なんとか支えていきたいと思います。」はじめもストレスを感じていた。なにもかも上手くいっていない、自分の思い通りになっていないという思いが次第に強くなった。会議をやっても前なら感情的にならず合理的な話ができたが今となっては無理であった。所長や幹部クラスでも退職する人が出た。会社経営において悪い兆候が出始めていた。洋子がたしなめてもどっちの味方なのかとか雇われの身でとか今まで言ったことのない言葉が散見された。洋子は毎日が辛く感じた。妻の啓子から新宿に呼び出されて会社の様子を聞かれた。「幹部社員で二人退職者が出ました。あまり感情で判断したり物事を決定したりしなかった方なのですが、最近は感情でしか判断や決断ができなくなっております。」「家でもあたしや直久にあたり散らすから大変なのよ。でもあなたも辞めるなんて考えないでね。あなただけが頼りなんだから。」「出来る限りのことはしたいと思います。」次第にフェニックスタクシーの雰囲気が変わっていった。上を見ながら仕事をするような社員が多くなった。業界の先頭を切って新しい時代を作ってきた経営者がもうそこにはいなかった。業界内でも「岩城はもう終わった」と言われていた。大手四社の社長たちも内心安心していた。むしろはじめが入院している間に着々と観光バス事業の準備をしていた。大手四社横並びのサービス内容と料金体系で。フェニックスタクシーを潰しにかかる包囲網が大手四社と関東無線の間で密かにすすめられた。

 1992年も年末くらいになると不景気を実感できるくらいになっていた。フェニックスの業績も悪化しはじめていた。それは、景気のせいだけではなかった。幹部社員だけではなく乗務員も辞め始めていた。稼働率はこれまで90%を割ったことはなかったが今では85%を維持するのがやっとだった。洋子も退職したいという社員とは積極的に面談をして慰留した。社員のほとんどがはじめのカリスマに惹かれて入社した人たちなので、変貌してしまったはじめに愛想が尽きていたのだ。中には、気の毒に思ってより一層頑張る社員もいたが、一度できた流れを変えることはできなかった。

 1993年には、はじめの言語障害もなくなり普通に会話できるまで回復した。はじめはいつしか銀座に通うようになった。クラブ「deep sea」では温かく歓迎された。月に3百万円は使うようになっていた。洋子ははじめの事情を知っていたので、交際費として問題があるなどとは言わなかった。少しでも早く記憶が正常になって元の社長に戻ってほしいと思っていたからだ。ボクシングのプロモーターの赤木圭一と再会した。「社長、大変だったようですね。でも話している限り回復なされたんですね。おめでとうございます。」「ママ、ドンペリ開けてくれ。赤木さんと乾杯したい。」これまでのことをすべて赤木に話した。赤木は、聞き手に回った。ただひたすら聞き手に徹した。百戦錬磨の男が、付け入る隙間を見つけたのだ。話が終わるとはじめはこう言った。「明日、本社に来てくれ。うちの社員にしたい。嫌か?」「いえ、光栄です。ありがとうございます。明日、中野の本社に伺えばいいですね。」

 翌日、はじめは洋子に社長の推薦枠で一人採用することになったと伝えた。今まで公私混同するような人事をやらなかった人が、短絡的に人を採用するようになった。「これが必要書類です。履歴書、職務経歴書、年金手帳揃ってます。」赤木は礼儀正しく9時に出社し挨拶をした。洋子は、好きになれないタイプの男性だと思った。芸能界という海千山千の世界に少しの間身を寄せていたので本能的に分かるのだ。危険な男だというのを。「本社内で空いてる部屋を一室、彼の専用の部屋として使わせてやってくれ。しばらくは、会社の状況を知ってもらいそのあとは新規事業の立ち上げに参加してもらう。」以前であれば洋子をことを一番に信用していたが、今はこの赤木というボクシングプロモーターを信用している。あの出来事の後、人間不信に陥っていたところがあったから仕方のないことであった。内部より外部に信用できる人を求めたくなる。人間としての当然の心理であった。新会社を「フェニックスプロモーション」という名前で設立した。売り上げがたつ見込みがなかったので、フェニックスからお金が落ちるような仕組みを作る必要があった。

 赤池裕一が挨拶にお邪魔したいという連絡があった。久しぶりなので、会ってみることにした。「社長、ご無沙汰しております。やっと税理士試験に合格して、1年間他の税理士事務所で修業して今度独立することになりました。名刺を受け取っていただけますか。」「赤池コンサルティングファームか。いい名前だ。うちの顧問でもやらないか。新しくフェニックスプロモーションという会社を設立したから、その会社の顧問税理士ということでどうですか。」「喜んで引き受けます。何か困ったことでもあれば遠慮なく言ってください。」「早速だけど、新会社に合法的に金を落として何とか回せるようにしたい。その仕組みを作ってもらいたい。できるか。」「何とかやってみましょう。」

 1993年は赤木、赤池二名がフェニックスタクシーではじめに急接近した。この二人が後に崩壊の火種になるとは、今のはじめには見極めることができなかった。

 「笹岡さん、今度フェニックスプロモーションでボクシング事業を始めるよ。協力を頼むよ。」「社長、お言葉ですが本当にやられるのですか。あの事故の一件以来観光バス事業は低迷しておりますが、まだ再起できるところにはいると思います。このまま放っておくと閉鎖するしかなくなります。それでなくても、大手四社も観光バス事業に乗り出し規模の拡大を図ってますから。関東無線も大手四社とは頻繁に会合をもっているようです。もう少し、タクシー事業に尽力された方がよろしいのではないですか。」「君は、社長の私に意見するのか。何も考えていないわけではないよ。ボクシング事業も将来に向けての布石だよ。タクシー事業を盛り返すための手段だよ。もういい。また今度じっくり話そう。部屋を出て行ってくれ。」洋子は、そそくさと社長室を後にした。もう後戻りはないという感覚が洋子にはあった。全く違った方向へ動き出している。経営者としての精鋭さがどこにも感じられなくなっていた。従業員の退職、稼働率の低下、ゆっくりと業績は下降線をたどり始めていた。

 

 

 

小説「暗転」~帝王が愛した女~ 15

《第二章 時代の流れ》

 

哀哭(あいこく)

 

 

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 1990年年始から不穏な動きがあった。それは、大発会から株価が暴落しはじめたからだ。大納会で史上最高値を付けたにも関わらずだ。これは完全に予期せぬ事態だった。これから日本経済に起こることを暗示していた。

 はじめは、馬込営業所のハイヤー事業の売却先を探していた。商工銀行の仲介で岡山県にある物流会社に売却先が決まった。売却交渉の間に、洋子は馬込営業所の土地の測量や当初観光バスを二台でスタートさせることなどを事業計画として策定した。売却手続きは、3月末までに完了する内容の契約書にした。岡山県だけでは今後やっていけなくなると危惧した経営者の判断であった。東京で買収したタクシー会社にフェニックスタクシーのハイヤー部門を買収して強固な経営基盤を関東につくりたいと考えていたからだ。更には、フェニックスタクシーからの買収という話題性とブランド力を手に入れ広告宣伝に利用することも目論んでいた。無事に売却手続きが3月末までに完了した。その時の業界新聞には、「フェニックスタクシーに異変、業績悪化が原因かなどと掲載され物議を醸した。」しかし、はじめにとっては好都合だった。他社に観光バス事業の件で邪魔されたくなかったからだ。業績悪化なら水面下で何か新しい事業をやろうとしているとは勘繰らないだろう。

 早速、洋子に売却完了の話を伝え観光バスの認可申請の手続きに移行するよう指示した。巷では株価暴落で動揺が走っていたが、フェニックスタクシーの業績には異常はなかった。鮫洲の陸運支局に洋子は通いつめた。修正箇所等が見つかりその都度再申請した。はじめも、珍しく法令試験に向けて勉強した。社長自ら合格するのが認可の条件だからであった。はじめは洋子を呼んで進捗状況を確認した。「申請書類の準備はできていましたが、タクシーとの兼ね合いから、レイアウト変更があったりしましたので、その部分でタクシーの認可上問題が見つかりました。その部分の再考をし、修正版で申請しましたのでなんとか陸運支局に昨日受理していただけました。」「あとは、私の法令試験の合格だな。久しぶりの試験勉強だから、内のが驚いていたよ。君に受けてもらった方が安心じゃないのだって。」「社長、お言葉ですが試験の開催日は月に一回だけですので、不合格になって再受験となればそれだけ事業化が遅れることになります。」「分かってるよ。恥ずかしいくらいに真面目に勉強しているよ。」

 この年は、株価の変動だけでなく歴史的にも重要な出来事が多発した。5月には、ジャパンマネーを世界に知らしめることになる、ゴッホ「ガシェ博士の肖像」を史上最高値の8250万ドル(約125億円)で日本人が競り落とした。はじめは最初の試験に落ちてしまったので再受験となった。そして翌月受験して見事合格した。観光バスの事業化は10月から可能になる見込みとなった。8月には中東で石油問題をめぐるイラクとクウェートの交渉が決裂。イラク軍がクウェートに侵攻、全土を制圧。国連安保理の緊急理事会がイラクの即時無条件撤退を求める決議を採択といった非常事態が発生した。

 既に株価暴落で痛手を被った機関投資家、銀行、個人と景気に水を差し始める事態にも関わらず官僚主導で誤った金融政策が打ち出された。日銀がインフレ防止のため8月30日に公定歩合を0.75%引き上げ、年6%に引き上げた。これにより一気に景気が減速しはじめた。10月1日に無事に観光バス事業がスタートした。想像を絶する不景気の波を受けるとはその時はまだだれにも分からなかった。同時に株価は1989年12月29日の史上最高値3万8915円から9カ月で約50%下落の2万円割れとなり、時価総額590兆円(世界一)から319兆円に減少した。そして、東西ドイツが統一されたのもこの年であった。

 フェニックスタクシーの観光バス事業は、業界新聞にも華々しく掲載された。馬込営業所の立地は、観光バスに適した場所だった。羽田空港を軸に地方からのツアー客を集め京都や奈良、大阪、岐阜の飛騨高山などへ行きやすかった。また、羽田空港はいずれ国際空港になるだろうという読みもはじめにはあった。そうなると海外の観光客を乗せてツアー企画もしやすいことになる。観光バスの第一便は、京都・奈良のツアーであった。株価の下落は起きていたが個人消費はまだ旺盛だった。タクシーの利用者の減少がはじまり出していた。観光バスの方には目立った影響は見られなかった。観光バスの乗務員もベテランを採用していたので取り敢えず安心だった。色々な企画がフェニックスタクシーには持ち込まれた。そもそも社名にタクシーとついていたので、商号変更した方がいいのではないかという業界関係者も出た。しかし、はじめは父親がつくった会社の名称を変える気はなかった。運行範囲も徐々に広がり、近隣だと草津、軽井沢、伊豆・箱根、静岡、新潟と広がっていった。わずか二台からのスタートとなったが常にフル稼働となった。お年寄りからも好かれる観光バスとなりバスガイドも新卒から採用した。経済の冷え込みを感じながらも、1990年は静かに過ぎた。

 1991年タクシー事業と観光バス事業の本格成長を見据えた経営会議を年始に開いた。会議では業績の報告からはじまり、お客様の動向について詳しく議論された。サラリーマンの利用状況の悪化が目立ち始めていた。法人のチケット利用者に至っては激減していた。その他個人については、長距離が減った程度であった。観光バスは二台しかないこともあり特段の影響は見られなかった。タクシー事業のテコ入れが必要だと出席者全員が認識した。しかし、有効な手立ては見つからなかった。ほんの少しだけ耐えればなんとかなるという情勢ではなくなってきていた。総需要が減少している中でタクシー会社ができることは何もなかった。景気変動には逆らえなかった。

 観光バス事業は意外に好調であった。そのため、乗務員やバスガイドの過労に気づかなかった。そして6月に事故が発生した。軽井沢へ向かう途中軽井沢バイパス塩沢交差点を右折する際に、居眠り運転が原因で観光バスが横転してしまった。大惨事となり、負傷者多数、死者2名の事故となってしまった。連日テレビ報道があり、はじめも陸運支局への報告、遺族への謝罪など寝る暇もなかった。テレビでの記者会見も生まれてはじめて行った。かなりのバッシングがある中で精一杯謝罪した。洋子も会社の一大事と思い力の限り対応した。記者会見も無事に終えテレビ局の地下駐車場へ向かっている途中に悲劇は起きた。はじめは突然、洋子にもたれるように倒れてしまった。「社長、しっかりしてください。どうしたんですか。」洋子は気が動転して自分でも何が起きているか分からなかった。すぐさま救急車が呼ばれ聖路加病院へ緊急搬送された。診断の結果は、脳梗塞だった。一か月間意識は戻らなかった。妻啓子と洋子はともに毎日病院に見舞いにきた。二人とも顔を合わせるといつも涙が出た。「主人があなたに信頼を寄せたのも今なら分かるような気がする。綺麗なだけではない優しさと情の深さがあるから。そして本当に主人のことを心配しているのが私には痛いほどよくわかるから。」「奥様、今は回復することだけを祈りましょう。私たちにできることはそれだけです。それと会社の方が混乱していますので、一度奥様から役員・幹部一同に状況報告と暫定的にせよ決済をどうしていくかご説明していただけませんか。」「分かりました。笹岡さん助けてくれるわよね。」「もちろんです。」暫定的に取締役会で代表取締役が選任されたが、重大な決定には妻啓子の承認が必要とされた。

 そして、はじめの意識は回復した。多少呂律が回らなかったが、半年もすれば今まで通り話せるようになるだろうという医師の診断であった。体の他の部位には不随のような症状が見当たらなかった。まさに奇跡といっていいほどであった。しかし、啓子も洋子もなぜか今までのはじめとは違うものを感じていた。フェニックスタクシーにとっても日本経済にとっても1991年は試練のはじまりの年だった。

                               ―第二章 完―

 

 

 

 

小説「暗転」~帝王が愛した女~ 14

 《第二章 時代の流れ》

 

無偏(むへん)

 

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 1989年3月、相変わらずタクシー業界にとって3月、4月は書入れ時だった。稼働率は90%を超えとにかく順調すぎるくらい順調だった。はじめは、とにかく会社の成長の種を見つけるために四苦八苦していた。業種を超えた会合にも貪欲に出席した。政治家を紹介するという人もいたが、それだけは断った。関わっていいことがないことをはじめは知っていたからだ。いいように利用されるだけだということを。必然的に酒を飲む機会が増えた。一週間に4日は酒を飲んでいた。これも仕事だと思って気にせず次の種を見つけるまで続けようと思っていた。仕事に没頭すればするほど、家庭を疎かにしてしまっていた。そんなはじめを洋子は心配していた。傍からはうまく行っているように見えても、経営者としてはそれに満足できないでいるはじめを洋子は特に気になっていた。ある時振り返ってみた時、だれも自分の後についてきてくれていなかったという風にならないことを願った。それが家庭であれ会社であれ。

 この頃になると株価も不動産価格もかなり高騰していた。品川区東五反田で島津山周辺だと坪単価1億円を超えていた。フェニックスタクシーも比較的立地のいいところに土地を持っていたので担保評価が上がり、金融機関ももっと借り入れないかと融資の勧誘が多かった。はじめの条件はいつも同じで、会社の成長の種になる事業になら投資しその際に資金が必要な場合は融資を受けるということであった。観光バスとかも検討したが、駐車スペースを敷地に確保できる営業所はなかった。借りてまでやっても採算は合わなかった。はじめは洋子と観光バスの件で一度打ち合わせをした。すると、洋子は意外にも賛成だという。「珍しくすんなりと観光バスに賛成したね。」「国内だけでなく海外からのお客様にも受けそうだと思いまして。はとバスも人気がありますでしょ。だから何とかなるんじゃないかと思いました。」「そうか。ただ、駐車スペースが確保できないんだよ。」「それなら、ハイヤーをお辞めになったらいかがですか。実質赤字です。乗務員も確保しなければいけないし、車のグレードもタクシーよりも高級車にしなければならないことから損益分岐点がかなり高いです。」「よく分析しているね。馬込の山口所長と打ち合わせてみるよ。」

 早速はじめは馬込の所長の山口を本社に呼んだ。そして、観光バスについて話をした。ハイヤー事業をどこか別の会社に譲渡して、観光バスをやりたいということを伝えた。ここでは激しい口論となった。「社長、タクシー大手四社であっても、ハイヤーはやっても観光バスなんてやっているところはどこもないですよ。なんでもかんでもどこもやっていないから価値があると考えるのは危険です。再考してください。」はじめも口調が強くなった。「そんな言い方しなくてもいいだろ。そもそもハイヤーが儲かっていないからいつまでもやれないと思っていたからだよ。観光バスの方が抱える乗務員の数も少なくて済むし、平日、休日関係なく安定した需要が見込めるからだよ。旅行代理店と組めば問題はないだろ。」「とにかく私は反対です。私がいかに苦労して大手航空会社と職員用のハイヤー契約をとってきたと思いますか。同業他社からの引き抜き工作にも負けずと当社のために働いてきたことを考えれば、社長は私にそんなことは言えないはずです。」とにかく山口は反対であった。

 ある時、洋子からハイヤー関係の請求金額に問題があり、元受けのウエスターンカンパニーからお金を戻してほしいという連絡があったという報告があった。請求書1年分を訂正したいという内容であった。はじめは、ハイヤー事業を馬込営業所だけでやっていたので、請求業務も一任していた。所長の山口を直ちに呼びつけ事態の説明をさせた。山口は、請求金額の算出の数式に間違いがあったという回答であった。はじめは、洋子に修正業務をさせると言った。しかし、山口はそれを認めなかった。「社長は、私たちのことが信用できないのですか。責任をもってこちらで対応させていただきます。他部署の方に口出しして欲しくない。」かなり語気が荒くなっていた。「ウエスターンカンパニーとの契約書、担当者の名刺、利用時間と走行距離とか一切のデータを私に提出してください。これは社長命令だ。」山口は何も言わずにその場を立ち去った。

 一週間後、はじめは洋子を社長室に呼び提出された書類をもとに請求金額の検証を依頼した。ウエスターンカンパニーの社長にもはじめは直接連絡して、請求金額に疑義が生じており鋭意対応中であるので差額が発生しているようであれば、検証結果が出るまで待って欲しいと伝えた。相手の社長も了承した。

 しかし洋子がいくら検証しても請求金額に誤差はなかった。そのことを社長に報告するとこんな返事が返ってきた。「経理的にどんな不正ができると思う?」「当社側としては売上高の修正をするだけですので、帳簿上はつじつまが合います。ウエスターン側も仕入高の修正ということで問題ないと思います。但し、修正をすればの話です。」「どういうこと?」「当社から出された、修正された請求書を当社と関係のある幹部社員が握りつぶして経理部門に提出せず、当社から振り込まれた差額金を誤入金として預かり金または仮受金として経理処理をします。それを当社に現金で返金したいから出金してくれと経理部門に依頼して、そのお金を着服するといったこともできなくはありません。その際は、当社内部にも仲間がいることになります。」「馬込の山口か。あり得ないことではないな。真相究明にあたって、信頼関係を壊さず真実にたどり着くのには何かいい手はないかな。どう思う?」「だとしたら、ウエスターンカンパニーの社長に協力を要請したらいかがでしょうか。」「それは妙案だ。そうしよう。両社とも関係のない場所で会うのがいいな。久しぶりにdeep seaを使おう。」

 銀座のクラブ「deep sea」に一堂が集まった。ウエスターン社長の杉谷は事情が呑み込めていなかったが、次第に水面下で起きていることを理解した。杉谷は自社の社員に事情説明をさせて、具体的にどこでおかしいと気づいたのか、なぜ1年も気付かなかったのかも確認すると約束してくれた。そこには、もちろん洋子も出席していた。杉谷は、実は洋子のファンでもあった。「社長はお目が高い。笹岡さんはブリザードのボーカルでしたよね?」「ブリザードとは一体何のことですか。」「社長はご存知ないのですか。幻のバンドと言われてまして、アルバム1枚だけリリースして解散したバンドです。音楽番組でも確か一位をとったことがあるくらい当時は売れてました。今日はじめてお会いしましたが、間違いないと確信しました。そうですよね、笹岡さん?」「隠すつもりはなかったのですが、もう過去のことですから。」「ええ、初めて知ったよ。池之嶌なんかはモデルみたいな人が面接希望で来たよとしか言ってなかったから。」「恥ずかしいので、この話題はここまでにしませんか。」はじめは意地悪に「もっと聞かせてよ。芸能界のこととか。」杉谷が洋子のことを気遣い話を変えた。「それは、そうと岩城社長、最近社長が晴海ふ頭あたりで綺麗な人とデートして、キスをしていたとかいう変な噂が流れてましたから気を付けてください。」はじめも洋子も驚いた。あの夜の一回だけのことを誰かに見られていたのだと思った。「洋子さんがかつての人気バンド、ブリザードのボーカルであったという事実は意外にこのタクシー業界で知られつつありますので、マスコミがかつての歌姫のその後ということでゴシップ記事になりやすいです。それでなくても、岩城社長自体が風雲児とか帝王と呼ばれているんだから。二人合わせて特集記事になりますよ。」「気を付けるよ。」はじめもあの夜のことは軽率だったと今思った。途中で杉谷を見送り、引き続き洋子と「deep sea」で話し合った。「あの夜のことは本当に申し訳ない。君がそんな有名人であることも知らなかった。これからは注意するよ。それから、お願いしたいことがあるんだ。」「社長、もしかしたら観光バスの認可のことではないですか。」「そういうところが好きなんだよ。その通り。この請求金額問題も、ことのはじまりは観光バス導入にあたって馬込のハイヤー事業撤退に端を発しているような気もする。いずれにしても俺は観光バス事業をやる。だから大変だけど認可の方も準備を進めて欲しい。」「軽々しく好きだとは言わないほうがいいですよ。それに認可の方はどうしたらいいのか、一度鮫洲の陸運支局に聞きに行ってます。」「私に報告してないだろ?」「報告書を作成している最中に、誤請求問題が起きたからです。まだ報告書は仕掛中です。」「そうだったか。できそうか。」「できるとは思いますが、早くて1年後になると思います。」「分かった。もう帰ろうか。なんか疲れた。」「最近、お酒を飲む機会が増えてますから注意してくださいね。」「ママ、もう帰るからお勘定締めて。」「あんまり綺麗な女性つれてくるから、お店のお客さんがあの子をこっちに連れてきてなんていう人もいらっしゃったのだから。」「うちの総務経理を任せている笹岡洋子さんだよ。」二人は女性同士初対面だが男に依存しないもの同士どこか相通じる部分もあった。

 しばらくしてウエスターンカンパニーの杉谷社長から連絡が入った。「岩城社長、どうやらうちのハイヤー担当と御社の山口所長の間で返戻されたお金を内々で処理して山分けする手筈だったようです。未然に終わりましたが、こちらは懲戒解雇にしました。」「こちらも山口を呼んで確認します。色々ありがとうございました。」

 急遽、山口を呼びつけ詰問した。山口は相手から言われたから従っただけだと言った。はじめは、「ウエスターンの担当者が白状したんだ。男らしく白状したら依願退職で処理してやる。」と山口に言い寄った。それでも言い訳をするので、相手の担当者と社長も呼んで、査問委員会を開いてもいいと言った。さすがに山口も根負けして依願退職することに同意した。事が解決すればそれで終わりではなかった。何年かに一度所長の横領が出てくること自体どうしようもないことなのか悩んだ。洋子に言わせればどんなに偉くなっても所詮人間だからということなのだろう。虚しさしか残らなかった。

 馬込の新所長は、銀行から呼んだ。洋子の調べで、観光バスの認可申請にはかなりのハードルがあると分かった。一般貸切旅客自動車運送事業の経営許可というのが正式名称だが、この申請書作成に一か月はかかること、そして次に社長みずから法令試験を受験し合格しなければならないこと、不合格の場合は再試験があること、現地調査と意見聴取、法令試験合格後に審査がやっとはじまる。ハイヤー事業の売却で駐車スペースを確保する期間を除いても、順調にいっても最短で三か月は覚悟しなければならないことだ。はじめは、観光バス事業を第二の柱にしたいと考え始めていた。1989年大納会の株価は、日経平均3万8915円で頂点に達した。

 

 

 

 

小説「暗転」~帝王が愛した女~ 13

《第二章 時代の流れ》

 

回想(かいそう)

 

 

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  洋子の祖父であり、はじめの父親の悟といっしょに朝鮮半島から日本へ逃げてきた笹岡一郎は、悟と別れてからすぐ佐世保の海軍病院で、マラリアに罹患してこの世を去った、1945年9月のことであった。遺体は、昭島市の実家に丁重に輸送された。実家には一郎の妻と息子夫妻がいた。一郎の妻が「やっと終戦を迎えてみんなで暮らせると思っていたのに。」と言うと、息子の弘明はおもむろにこう言った。「戦争で現地で亡くなられた人もいるんだから、遺体でも無事に家に帰ってきただけ良しとしないといけないんじゃないか。」「そうだけれども。母さん、ずっと待ってたから。」「今はただ静かに埋葬しよう。本当にお疲れさまでしたと言いたい。」一郎は、陸軍士官学校出ということもあり、葬儀には政府高官もみえた。そして、青山霊園に埋葬された。

 笹岡弘明は父、一郎が残した少しばかりの財産をもとに不動産会社を設立した。戦後の復興で、必ず不動産業は伸びると考えてのことだった。生活は少しだけ裕福だったが、子供ができなかった。暮らし向きが良くなっても、やはり子供がいないので寂しい家庭であった。明治神宮にも欠かさずお参りに二人で出かけていた。それでもなかなか子供ができなかった。1959年、弘明は36歳になっていた。思い切って二人で佐世保に旅行に行くことにした。当時の海軍病院は民間に払い下げられていた。佐世保は米国の空母を整備する義務を負っていたので、なぜかしらか周囲は物々しかった。一週間の滞在期間だったので、思う存分羽を伸ばそうと思っていた。まず、九十九島を遊覧船で二人で巡った。そして展望台からは九十九島の大パノラマが一望できるという芸術的光景も見れた。眼鏡岩、潜竜ヶ滝公園、長串山公園を見て回った。佐世保に鎮守府がおかれてから、太平洋戦争が終わるまでの約60年間に亡くなった海軍将兵17万余柱の霊が祀られている佐世保東山海軍墓地も歴史をかみしめながら見て歩いた。佐世保要塞 丸出山観測所跡にも行った。二人は想像していたより、佐世保が海も山もある観光地として素晴らしいところだと感銘を受けた。最後の夜は、佐世保軍港の夜景が見えるレストランで食事をとった。久しぶりに恋人に戻った気分で二人は夜景を楽しんだ。「お父様は、ここで亡くなられたのね。」弘明の妻の明子が言った。「今ほど整備されてなかっただろうけどいいところだよ。この佐世保は。」「本当よね。こんな素敵なところで亡くなられたのなら本望だったのかもしれない。」十分楽しんだ後二人は東京へ帰った。

 しばらくして、明子は体調がすぐれないことに気づいて、立川市にある立川病院で診てもらうことにした。診察結果は、体に問題があるわけではなく妊娠していることが分かった。この知らせを聞き弘明は驚きそして喜んだ。まさかの妊娠であったからだ。誰もが出産はもうないだろうと思っていた。1960年7月7日の七夕に洋子は生まれた。佐世保の海、太平洋から一字拝借し洋子としたのだ。年がいってからの子供だったので二人は可愛がった。そして洋子の祖母も初孫で可愛がった。学習院初等科から学習院大学経済学部まで進学した。部活動は、中等科から軽音楽部に所属してボーカルを担当していた。ノリのいいエイトビートのロックが好きだった。大学に進学すると月に一回ライブハウスでバンドと歌いまくった。バンド名はブリザードという名前だった。洋子の声は、その身体からは考えられないくらい声量があり伸びのある声だった。実際に、メーターがいつも思いっきり右に触れていた。美人でスタイルもよく歌もうまいので固定ファンがついていた。たまたまライブに居合わせたレコード会社の社員の目に留まり、オーディションを受けることになった。歌も上手くルックスもいいことからオーディションにパスしメジャーデビューすることになった。CDもたった一枚だけとなったが発売された。タイトルは「OVER THE SKY」。音楽番組で堂々の一位を獲得し一度だけテレビ出演した。コンサートも一度だけ行った。しかし、洋子はプライベートを大切にしたいと考え、大学卒業とともに芸能界から引退した。業界では知る人ぞという存在になった。ちょうどその頃、父の弘明は、杉並区善福寺に風光明媚なところにある不動産の売り物があることを知った。1982年のことだ。娘の洋子も芸能界から引退してまた昔のように静かに家族で暮らしたいと考えていたので、善福寺の不動産は即決で購入した。父一郎の頃から住んでいた昭島の家を売却し引越ししてきた。そして洋子は、父親のすすめもあり北海道でゴルフ場やスキー、温泉とリゾート開発を手掛けている会社の御曹司と結婚し北海道に嫁いでいった。洋子はその時24歳であった。

 結婚してから洋子はあることに気づいた。それは結婚相手が自分に望んでいたのは、芸能界で有名になった奥さんという肩書だけだったということだ。それでも、両親を心配させたくなかったので、我慢した。夫の会社ではなく近くの水産会社の事務で仕事を得た。なにも仕事なんかしなくてもいいと言われたが、そのまま家にいたら気が狂いそうだった。家事をこなしながら水産会社の方たちとの毎日の会話が楽しかった。北海道財界の集まりにはよく駆り出されたが、ただのお飾りであった。結婚してから一年が過ぎたころ、洋子の父、弘明が治療で東京女子医大に行く途中、トラックに跳ねられるという事故が起きた。急遽、東京に戻ってきた洋子夫婦だったが、旦那にはすべてが人ごとのようであった。悲しみにくれる洋子であったが旦那はあまり相手にしなかった。そんなぎくしゃくしながらも結婚生活を続けていたがとうとう洋子にも限界がきた。愛想が尽きたのだ。離婚届に署名捺印して家を出てきた。実家にもどってきた洋子を見た時、祖母も母も驚いたが洋子の気持ちを尊重した。洋子は26歳になっていた。時代は1986年、バブル経済のふもとにいた。

 

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