小説「暗転」~帝王が愛した女~ 1

《序章》 

脱国

 

 日本名、岩城悟は1930年北朝鮮で生まれ、第二次世界大戦が終結しかけている1945年8月、北緯38度線付近にいた。後にソ連と米国で朝鮮半島が分断され、全く違う思想により本当の境界線になる歴史的な場所に。元々、朝鮮半島は、南より北の方が豊かだったのだ。同じ朝鮮人でも貧富の差はかなりあり、南は貧しかった。資源もあるところなので、ソ連は密かに領土に組み入れたいと考えていたし、極東地区の米国の牽制拠点にしたいとの目論見もあった。もし戦争がなければ、悟は鉄道の機関整備工として静かな人生を送ることができたのかもしれない。列車が好きで仕事に就いたのだから。

 しかし今となっては何よりも、生きていくために南に移動しなければならなかった。それだけ北朝鮮は、物資が不足し政治的に共産主義が色濃く出ていた。ソ連の容赦ない侵略もあり日々恐怖で発狂しそうな日が続いた。できれば、かなり荒廃はしているが日本の方がチャンスがあると、悟は考えた。戦禍の中を命からがら家族に何も告げず韓国まで逃げてきた。あと少しで、日本に渡れる。しかし、悟と同じ考えを持った人は他に1000人くらいいた。

 主要都市と海岸には、物々しい韓国軍隊が闊歩していた。北はソ連が侵攻して来ていたし、南は連合軍取り分け米国が侵攻し混乱を極めていた。戦争は、終結に向けて進んでいたが、将来への不安から秩序はそこにはなく殺戮と強奪が蔓延していた。軍隊も同じで統制を失っていた。脱国する人間を容赦なく銃殺した。愛国心のない非国民として。

 悟は何がなんても生き延びたかった。家族を置き去りにして、家宝の金の串刺しをいざというときのために、内緒で持ち出していた。時には、盗みにも入り食料や貴金属だけでなく、拳銃も手に入れた。

 何度も引き金を引きたい衝動に駆られたが、心を押さえた。そして、悟の運命を変えることになる日本人と出会った。名前は笹岡一郎という、日本兵だった。彼も日本へ帰国するために必死だった。戦争で重傷を負い、韓国の病院で手当てを受けたが日本人狩りを恐れて回復を待たずに逃げ回っていた。匿って助けてくれる韓国人もいたが長くは留まれなかった。悟が強盗に入った家にいて、何も盗らないことを条件に日本に渡る手引きをするという約束だ。体も自由が利かないので、誰かの助けを必要としていた。日本の軍人と一緒にいて手助けをしたと分かったら間違いなく殺されるという不安があったが、日本に渡るためにはこの軍人に賭けるしかないという思いが上回った。二人が理解し合うのに時間は掛からなかった。

 無事に、日本兵たちに合流するために、悟は一郎に片言のハングル語と北緯38度線付近で、ソ連兵の爆弾で負傷しなんとか逃げてきたと言えるようにした。まだ読み書きができない人が国民の4割もいたのでたどたどしい言葉使いでも怪しまれることはないと思った。むしろ、日本語を話されることの方が不味かった。

 悟はある時、一郎に聞いた。「そんな体でどうやって他の日本兵と連絡をとってる。」 「信じてないのか。」「いや、確認しておきたいだけだ。後で合流できても、それで用済みで殺されたくないからな。何か保証が欲しいだけだ。確実に日本へ行けるという保証が。」 「分かった。言うよ。もう間近だから話してもいいだろう。日本海の領域にいる戦艦から、朝鮮ラジオ放送に決まった時間に電波障害を起こさせ暗号で連絡をとりあっている。決まった時間にノイズが多くなり3分程度暗号通信が送られそれを傍受する。既に敗戦濃厚の知らせが着ていた中での負傷だった。決行日は8月10日の深夜1時だ。だから今夜の1時だ。仁川広域市の港から遠洋漁業船で出航する。すべての手筈は整っているはずだ。万が一に備えてハングル語が話せる人が必要だから、お前は殺されることはないよ。上手くいけば必ず日本に帰れる。その時は、お前には借りがある。その恩を仇で返すことは日本人はしない。だから安心してくれ。ここまで辿りついたのもみんなお前のおかげなんだから。感謝しているよ。俺一人じゃこの朝鮮で死んでたかもしれないから。」「そんなの信じろと言われても、俺は分かんないよ。一体どこでその暗号聞いていたんだ。その体なのに。」「病院の中だ。これが最後の通信と言っていたから変更はない。」悟はそれでも疑っていた。「最後に聞いたのはいつだ。」「8月1日だ。」「もし中止になったらどうするのだ。」「その時は、今夜12時に花火が上がる。それで終わりだ。もう帰れない。死ぬしかないな。」それでもなんとか港湾近くの倉庫までたどり着くことができた。心配は杞憂に終わったと思った。

 「あの船か」悟は昂る気持ちを抑えて言った。「そうだ。あの船だ。仲間が作業している。」「船の運転はできるのか。」「ああ大丈夫だ。軍隊で鍛えられた。戦艦は無理だが漁船くらいならなんとでもなる。」「早く行こう。みんなが待っている。」

 船の上からは、中條正平という男が手招きで呼んでいた。後の大日本船舶の社長になる男だった。「笹岡、そいつは誰だ。日本人じゃないだろ。」「ハングル語が話せて脱国したい奴を見つけてこいと言っていただろ。だから、連れてきた。」「もう見つけて乗り込んでもらっている。そいつを船長にして脱出する。」悟は心配になって聞いてみた。「俺はもう用済みかい。殺すのか。」一郎は言った。「いっしょに日本へ行こう。この戦争はもうすぐ終わる。日本は負けて大変な時代を迎える。」「本当に、連れて行ってくれるのか。いいんだな、いっしょに日本へ行っても。」「ああ。だけど招かざる客が三人も来たな。」韓国兵が三人も見回りに来た。「なんだこんな夜に。何をしてる。」韓国人の船長が答えた。「魚がめっぽう売れてまた漁に出ないといけなくなっちまったんですよ。だれも、こんな夜にしかも物騒な時期にだれも海には出たくないですよ。」「なら漁業許可証を見せてみろ。」「分かりました。見せますよ。これですよ。間違いないでしょ。兵隊さん。」「船にいる連中に作業を辞めさせ、全員一列に並ばせろ。身体検査をする。」

 

 遠洋漁業の許可証といくばくかの金を握らせれば、出港することは可能だった。しかし、その時は運悪く船内検査と身体検査を行うという。悟を入れて13人が乗り込んでいた。一人ずつ身体検査が行われ、悟の番になると銃声が5発鳴った。躊躇することなく三人の韓国兵を銃殺したのだ。悟は静かに言った。「もういい。どうせいつかはこうなると思っていた。」乗組員の一人が「早く死体を脇に寄せて出航しよう。ここにいたら、また誰かが銃声を聞きつけてやってくると面倒だ。」一郎も言った。「そうしよう。船を出そう。俺が運転する。」銃声が夜の海に吸い込まれていった。途中、三人の死体は海に捨てた。血の跡もきれいにデッキブラシで擦り、跡形もなくただの漁船として運航した。出航してから30分もすると、今度は米国海軍の検閲を受けなければならなかった。一人の米国将校が「全員一列に並んでください。チェックをします。」と言った。英語が分かるのは、中條だけだった。「みんな黙って言うことを聞いてくれ。何もなければすぐ終わるそうだ。」悟が何を仕出かすか分からないから、全員が固唾を飲んだ。しかし、先ほど韓国兵殺害に使用した拳銃は既に海の底だった。悟の前に来た時将校はこう言った。「お前には微かに硝煙の臭いがする。人でも殺したのか。」「いいや、日本人と勘違いされて殺されかけた。笹岡の方を指さし、あいつといっしょにひどい目に遭ってきた。ずっと硝煙まみれなのさ。ただの漁師なのに、顔や容姿が日本人に似てるというだけで、米国人や同じ朝鮮人にまでいじめに遭ってるのさ。ほんの少し前までは日本を崇拝していたのに。」「じゃ、この血の匂いはなんなんだ。」悟はすぐに返答した。「兵隊さん、ここは漁船だよ。魚の血の匂い、生臭い臭い、海の匂い、漁師の匂い色んなのが混ざってこんな臭いになってるのさ。いちいち気にしてたら、漁師はできないよ。海の上では、ステーキなんか食ったりしないんだから。」将校は言った。「こっちは、フィリピンから合流して眠ってないんだ。いちいちお前たちに付き合ってる暇はない。こんな夜に船で出てくるからこうなるんだよ。まあ船からは何も出なかったようだから良しとするか。しかし、金の串刺しとはいいもの持ってるな。」悟は言った。「お守りだよ。いつ海の上で死ぬか分からない。それが遠洋漁業なんだから。」「分かった。もういい。日本軍には気をつけろよ。あいつらは、今追い詰められている。どこで発砲してくるか分からない。」「ありがとう。」悟や一郎、正平の三人は、米国海軍が遠くに見えるまでずっと海を眺めていた。乗組員の一人が、安堵感から「もう大丈夫だろ。ここまで来たんだから。あとは、日本海軍と無事に会えるといいのだが。また朝鮮に逆戻りだけはしたくない。今度戻ったら、俺たちは確実に殺される。」その時、一郎と悟の周りに何匹か蚊のようなものが飛んでいた。「海にも蚊がいるんだな。」「ああ、どこにでもいるだろう」

 黒い大きな影が急に眼前に現れた。不気味な巨艦で警戒したが、日本海軍のものだった。無事に救出してもらい、日本に帰還することになった。船の中では朝鮮での状況やどうやってここまで辿りついたのか話をした。悟の助がなければ、帰還することもできなかったことも、韓国兵を殺害したことも、日本へ帰れるという嬉しさから言葉が途切れなかった。しばらくして、佐世保港に到着した。一郎は、「しばらくは、佐世保の海軍病院で治療するから、お前もこの佐世保に残らないか。」行先のない悟を思って言ったのだ。悟はこう言った。「約束は守ってもらったし、ここから先は自分で何とかするよ。俺は別に故郷に家族を置いて自分だけ助かりたいから逃げてきたわけじゃない。全員があのまま北朝鮮に残ってもだれも助からないと思ったからなんだ。俺は、この日本で再起して家族をこの日本へ呼ぶつもりだ。必ずみんな生きていると信じている。こんな俺でさえ生きているんだから。本当に出会えてよかった。信じてみてよかった。この金の串刺しはお前に上げるよ。お礼だ。そんなの当てにしてたら、俺は日本で成功しない。」「そんな高価なものは貰えない。俺の方こそお前に感謝している。生きて日本に帰って来れたんだから。」「本当にいいんだ。あんたにもらってもらいたいんだよ。」「じゃ預かるよ。」「預かる?」「そうだ。預かる。お前が日本で成功して名が売れたらそれを返しに行くよ。その時は、魚じゃなくて極上のステーキを奢ってもらうよ。いいね。」微かに笑いながら、二人は別れた。出会って二週間も経っていないのに、昔からの友人のようなそんな感情を二人は抱いていた。

 悟と別れて、二日後日本は無条件降伏をし終戦を迎えた。