小説「暗転」~帝王が愛した女~ 3

《序章》 

 

叛意(はんい)

 

 

 終戦後、日本はGHQの支配下に置かれ、徹底的に民主主義化と非軍事国家へと改革を迫られていた。それは、財閥解体*1、農地改革*2、普通選挙法*3、日本国憲法の制定*4、教育基本法の制定*5

  B29の空爆を受けて、日本の鉄道網は壊滅的打撃を受けていた。明治時代以降の日本経済発展を支えてきており、この再建が必要であると政府は考えていた。鉄道復興5か年計画を策定し復興に着手したものの、資金、鋼材、セメント等の主要資材の生産不足により計画を変更しなければならなくなり、目標達成が困難な状態であった。そうした中で、GHQはそれよりも道路の整備が急務であると考えていた。しかし、日本に自動車生産を許可しておらず、アメリカ軍のジープやアメリカ製の車が目立った。日本が独自に自動車生産するには1949年のGHQによる自動車生産制限解除まで待たねばならなかった。

 1947年2月、東京にたどり着いた悟は、朝鮮人が多くいる御徒町や新大久保付近をうろうろしていた。周りのみんなもただ生活するのが精いっぱいだった。なにもなかったが、生きてさえいれば今よりも必ず良くなるという希望だけはあった。変化の兆しは少しずつだが着実に街の光景に現れてきた。食糧管理法がまだ生きていて機能していたため、配給制であったが、悟は朝鮮人の仲間のネットワークを使い米軍の放出品をかつてポーカーで稼いだドルで手に入れた。それは主に小麦粉と葉巻だった。闇市で手に入れた小麦粉でラーメンの麺をつくり、醤油とかいろんなものを混ぜ合わせてスープにして温かいラーメンを出した。カロリーが高くお腹がいっぱいになるため、飛ぶように売れた。また葉巻も良く売れた。悟には、商才というか困っている人を助けて勇気を与える天賦の才があった。道路も次第に整備されジープが近くを通る姿を見ているうちに、悟はこれからは鉄道よりも自動車の方が大衆に受け入れられるのではないかと考えるようになった。街が復興していくうちにラーメンや葉巻も売れなくなってきた。東京に来てから5年の歳月が経とうとしていた。

 今まで貯めたお金と朝鮮人の仲間から金を借りて、1952年、練馬に1000坪の土地を買った。しかし、この時借りた金が後で大変な事態を招くとはその時の悟は知る由もなかった。はじめは、だまって不法占拠して自分のものにすればいいんだよと言われていたが、悟はそうはしなかった。朝鮮から脱国するときに助けてくれた笹岡一郎、マラリアに罹っても会社に入社させてくれた五味田哲也、そして一緒に仕事をした大越のことが忘れられなかった。日本人の土地を略奪してまで成功したとしても後味が悪い。むしろ、これからの日本人や日本へやって来た朝鮮の仲間たちにとって役に立つようなことがしたい、そう考えるようになっていた。だから、駅からほど遠い畑が続く練馬を選んだのだ。土地代金も安く新宿まで歩けば遠いが車を使えば近い。

 ここで、人気のあったワーゲンの中古車を1台手に入れた。1000坪の土地には掘立小屋と中古の黒塗りワーゲンが1台あるだけだった。まだまだ高嶺の花だった車もみんなで少しずつ使えば安く済むし移動時間の短縮にもなると悟は考えたのだ。採算をしっかり計算して料金も決めた。最初は受け入れてもらえなかったが、安くて便利なのと自分たちではまだ車が買えなかったので次第に人気が出始めた。儲けが出ても貯金して次のワーゲンも中古で手に入れた。日本人で兵隊あがりの仕事に困っている人に運転をお願いするようになった。乗車記録と料金の現金を任せられる信頼できる人のみ対象とした。復興が進むにつれて昼も夜も大忙しとなった。

 意外に朝鮮の人たちから運転手になりたいという奴は出てこなかった。彼らは、娯楽産業としてのパチンコ業界をつくり流れて行った。

 悟はワーゲンが好きだったので買う車はすべてそれだった。あの丸みを帯びた形に心が引かれたのだ。練馬に土地を買ってからわずか3年で車の保有台数は50台を超えた。タクシー会社としての免許を運輸省に申請し正式にタクシー会社として認可された。1955年4月フェニックスタクシー株式会社が正式に発足した。悟は運輸省に認可を取るために通っていた時に知り合った受付の女性と結婚をした。名前は、あきなといい気立てのいい子だった。悟が朝鮮人であることを知っても驚きもしなかった。むしろ、日本語が流暢であることに驚いていた。悟は25歳になりすべてはこれからだった。

 相変わらず朝鮮の仲間たちは土地を手に入れるのに躍起になっていた。これには、悟にしか分からない社会的背景もあった。朝鮮半島では、1910年の日韓併合まで土地所有制度が確立しておらず、主張で所有がまかり通っていた。日韓併合後の日本による土地調査事業によって土地の所有権が確立したのだった。だから、法的に悪いと知りながら不法占拠するものもいれば、知らずに自分のものだと主張するものが混在した。

 妻のあきなは、結婚してから1年くらいは運輸省で仕事を続けたが、1957年1月1日に待望の男の子が産まれた。名前をはじめとつけることにした。岩城はじめ、この子こそがフェニックスタクシーの名を日本に轟かせることになる人物であった。悟は順調に保有台数を伸ばし150台にまで増やした。地域のみならずお客様には愛された。あのワーゲンの丸みを帯びたかたちと親切な乗務員の対応が上手くマッチして好印象だったのだ。

 悟がはじめたタクシー事業は、社会からはぐれたものの更生だけでなく、そこで働く人の社会的地位も向上させなければならないという使命感が次第に強くなっていった。悟とあきなの間には、はじめの他に将和(まさかず)と静香(しずか)の子供が産まれた。会社も収入も安定してはいたが、小さくまとまりたくはなかった。ある時、悟はあきなに言った。「おれは所詮どこまでいっても日本人になれない。でも今、うちの会社の従業員はみんな日本人だ。他では朝鮮人というだけでいじめにあってるものもいるし、現にはじめも学校でいじめられる時もある。だからこそ、このタクシー事業をもっと大きくして社会に認めてもらいたいと思っている。朝鮮人がはじめたタクシー会社が社会のお役に立っているとみんなに認めてもらえれば、きっと偏見やいじめなんかなくなるし、そこで働く人が誇りをもって自分の仕事を自慢できる時がくると思っている。だから、もっともっとこのフェニックスタクシーを大きくして見せる。不安だろうけど、ついてきてくれるかい?」「もともと反対を押し切って結婚したんだから、苦労は覚悟の上なの。私も子供たちもそんなお父さんだから好きなのよ。」「いつも苦労かけるね。でもありがとう。決心が固まったよ。高円寺に土地を買って、フェニックスタクシー高円寺営業所を開設する。中央線沿線はこれからますます居住区として見直される。」

 こうして、フェニックスタクシーの第二幕が開けられるのであった。

 

 

*1:戦費を調達する日本の経済的基盤が財閥にあると考え、解体を指示した。三井、三菱、住友、安田保善社、富士産業が解体された。

*2:「農地調整法」と「自作農創設特別措置法」が制定され、大地主から強制的に土地を買い上げて小作人に与え、自作農戸の割合が6割を超えた。農家の生活水準が向上した。

*3:満20歳以上の男女に選挙権が与えられた。民主化が前進した。

*4:国民主権、基本的人権の尊重、平和主義を基本原則とした。軍事国家へ逆戻りしないよう明文化した。

*5:教育制度を6・3・3・4制の編成に改めた。