小説「暗転」~帝王が愛した女~ 4

《序章》 

 黎明(れいめい)

                                勝又洋 作

 個人のブローカーを通して、高円寺の地主が土地を売りたがっているというのを、悟は聞いていた。騙されたくはないので、役所で「土地台帳」から所在地、地積、所有者を入念に調べた。聞いていた話と違いはなかった。現金での取引を望んでいたので応じることにした。役所にできるだけ近い場所の銀行で行うことになった。その時には、いっしょに役所に行き、所有者変更の手続きをすることになっていた。

 1963年5月、ブローカーといっしよにやってきた所有者は、この土地を売ってもっと東京よりの土地を買いたがっていた。無事に決済も終わりすぐさま役所に向かった。1時間ほど待たされたが手続きが完了し、高円寺の450坪の土地はフェニックスタクシーのものになった。

 それから悟は、練馬に向かった。早く従業員にも知らせたかったからだ。「おーい、無事に高円寺の土地が買えたぞ。役所で手続きも完了したから問題ない。」悟は、受付にいた従業員に大きな声で伝えた。それから、応接室へ向かい練馬営業所所長の高柳と話し込んだ。「中央線は、東京のど真ん中を走っている。新宿や東京に出るのにも便利だ。これからはもっと人が増えるし、人が増えればタクシーの利用も増える。何よりも練馬より場所が気に入った。雰囲気のいい街だ。」「社長、練馬もいいとこですよ。」

「もちろんだ。分かってる。」「また、免許取らなければならないなあ。手伝ってくれるか?」「もちろんです。乗務員の募集でもなんでも言いつけて下さい。」「ありがとう。」

 悟は、練馬営業所の近くにアパートを借りて家族で住んでいた。長年の放浪の生活もあって将来が不安定であることを本能的に知っていたので、一か所に留まることに抵抗を感じていた。しかし、家族5人で暮らすのには手狭になってきていた。悟は、あきなに「今度の日曜日に、高円寺に買った土地を見に行かないか?あとは、その界隈も散歩がてら見てみよう。お昼と夜は外食だな。」「お父さんが誘って下さるなんて久しぶりね。だったら、お昼は私がお弁当つくりますから夜だけ外食にしましょう。その方がお金もかからないから。」「そうだな。そうしよう。本当いい人を嫁さんにしたよ。」

 日曜日が来て、久しぶりに家族水入らずで出かけた。高円寺の土地を見せるとあきなは「練馬よりは小さいのね?でも駅から近いし、大通りに面しているからお客様のところに向かうのにも便利でよさそうね。練馬よりなんていうか明るいっていうか活気がある街よね?」と言った。「ああそうなんだ。さすがは、元運輸省職員。大通りに面していて駅にも近いっていうのが買いたいと思った一番の理由かな。高円寺というか杉並をとても気に入ってしまった。ちょっといい公園も見つけたんだ。そこでお弁当を食べよう。」悟はそう言うと公園へ向けて移動し始めた。高円寺から荻窪の駅まで電車に乗った。なかなか電車は使わなかったのでみんな新鮮に感じていた。「お休みの日なのに、混んでますね。お父さん。」あきなはおもむろに悟に言った。「これからもっと人が増えるから混むんじゃないか。電車の本数も増えるだろうけど人の増加に追い付かないよ。だから、このあたりは、タクシーにとって重要なマーケットになると思うんだ。電車が面倒だと思う人だっているはずだし。人がいるとこにタクシーの需要は必ずあるから。」荻窪駅に到着して家族5人は善福寺公園へ歩き始めた。荻窪駅北口から3キロのところにある公園だ。1キロくらい歩いたところで、一番下の静香が泣き始めた。小さい子にはやはり辛い道のりだ。悟がおんぶしていくことになった。お父さんにおんぶしてもらったせいか、泣き止みむしろ元気に話はじめた。「お父さんのとこ高いからなんでも見える。」よほど気に入ったらしい。悟も嬉しかった。二番目の将和もうらやましく思ったのか「俺も父ちゃんの背中におんぶしてほしい。」とせがんだ。すると長男のはじめが静止した。「将和、お前男だろ。男ならおんぶしてもらうんじゃなくて、おんぶしてあげるんだよ。何情けないこと言ってる。岩城家の男ならもっと凛々しくしろ。」親の苦労を知っているせいか、はじめはいつも控えめだった。弟や妹の面倒も見てくれるし地元の道場で柔道も習い始めていた。悟も静香をおぶっての30分だったのでへとへとになった。善福寺公園に着くと、他にもたくさんの人がきていて茣蓙を敷いてお弁当を食べていた。悟たちは、茣蓙までは気がつかなかったのでタオルをしいて座った。芝生だったのでそれほど気にならなかった。食べ終わるとごろっと横になりまた空を見上げた。こんなにのどかな時間を過ごすのははじめてであった。善福寺公園をぐるっと一周するように池も眺めた。「こんなところに住めたら素敵よね。夢のまた夢だろうけど。」あきなはそう呟いた。「そんなことないさ。」悟は静かに語った。日本の生活水準が既に戦後を抜け出し新しい時代へ動き出しているのを悟はこのとき感じとっていた。

 1964年2月、銀行からの融資も受けられ高円寺営業所の建設が始まった。わずか3か月で完成した。そのあと、運輸省にタクシー事業の認可申請を行い同年11月に正式にフェニックスタクシー高円寺営業所がスタートした。最初は50台からであったが問い合わせも多く50台では足りなくて練馬からも応援に来させていた。この時、悟には妙案が浮かんでいた。営業所が単独でお客さんの電話を受けて対応しているより、何か司令塔になる組織が必要であると。お客様の連絡を受けてそこから最も近くにいるタクシーがお迎えにいくのが一番効率がいい。おまけに、お客様を待たせなくて済むことになる。そんな構想を持ちながら、お客様のニーズに対応するため更に銀行融資を受け台数を50台から一気に100台へと高円寺営業所を拡大させた。フェニックスタクシーは練馬と高円寺を併せて250台へと躍進した。戦時統合されて生き残っていたタクシー大手4社も拡大路線を邁進していた。同様に中央線沿線に狙いを定めていた。悟のところには、小規模なタクシー会社の経営者がいつも相談に来た。この頃は、練馬にいるより高円寺にいる方が多くなっていた。相談にくる社長には、以前から考えていたお客様の連絡を一手に受けて、最も近くにいるタクシーが迎えにいくという話を何度も聞かせていた。大手4社の脅威もあり、出資金を募り団体を発足させた。出資割合は当初フェニックスタクシーが6割の12社から始めることにした。その名は関東無線協同組合。フェニックスタクシー高円寺営業所内に設けた。組合員のタクシーには同じ無線機が装備され、電話連絡を受ける人員は出資割合に応じて配置された。順調な滑り出しであった。お客様の評判も良く、組合員のタクシー会社も無理して始めてよかったという声が多かった。

 悟は新たに荻窪周辺に500坪の土地を買う決心をした。インフレの足音が少しずつ聞こえてきていたからだ。貨幣価値が下がれば銀行借り入れも楽になるだろうと考えたのだ。1969年8月の暑い日だった。営業所の建物も完成し、運輸省からの認可が下りたのは1970年4月であった。はじめから認可上限の120台からのスタートだった。銀行からの融資残高は既に5億円を超えていた。フェニックスタクシーは練馬、高円寺、荻窪の3営業所で370台の保有台数に至った。国産車のタクシーが目立つ中で頑なにワーゲンにこだわっていた。レトロでかわいらしいデザインがお客様に受けた。国産車も大分安くなってきていたが、ワーゲンの魅力はデザインだけでなくエンジンの故障もなくボディーも頑丈で錆難かった。流石は、寒冷地のドイツでアウトバーンで鍛えられた車である。国産車はまだ寒くなるとエンジンのかかりが悪かったり、ボディーが腐食したりとか悟には納得いかなかった。

 関東無線協同組合もいつしか組合員が30社になり、フェニックスタクシーを含めて2000台を超える一大組織に変貌していた。悟は組合長もしていたので、自社のマネージメントは所長に任せた。お客様からの電話連絡からの各社への配車は公平に行われていたので問題は起きなかった。むしろ、更なるサービスの進化が必要であると考えた。これまで個人のお客様だけをメインに考えてきたが、法人の利用もかなり増えてきており大手にごっそり取られていた。ここで悟は、料金の後払いを考案する。関東無線協同組合のオリジナルチケットを発行し、そのチケットを手数料相当額で購入してもらい、実際に使用する際には、チケットを乗務員に渡してもらいその場でサインをしてもらい領収書をチケットと引き換えに渡す。後日、会社に請求をして代金の回収をするというシステムだ。このシステムについて組合員に説明したところ、悟は猛反発をくらうことになる。現金でその場で回収できていたのが1か月もあとにならないとお金が入ってこないと乗務員に給料が払えないということだった。一時的に運転資金が必要になるかもしれないが売上も伸びるし稼働率が上昇するから大丈夫だと説得をした。組合員の中から不動産価格も上昇しているから、担保にいれて少しだけ借りればなんとかなるという意見も出て、このチケット制がはじまった。悟が最初に営業に行ったのは、朝鮮からいっしょに逃げてきた元日本兵の大日本船舶株式会社代表取締役中條正平だった。東京丸の内にある本社はとても豪華だった。「岩城さんに会うのは何年振りかな。本当にご無沙汰しております。」「大出世ですね。実はお願いが合ってまいりました。今タクシー会社の社長だけでなく関東無線協同組合の組合長もやっております。御社で当組合のタクシーを利用していただきたいのですが。」「うちは大手4社とも契約しているから間に合ってると思うよ。」「うちの組合の強みは組合員30社で東京都をほぼ全てカバーしております。会社単独では手薄なエリアもありますが、組合員一丸となって中小企業の弱点を補っております。タクシーが捕まらないということもありませんし不便はおかけしません。」「分かった。採用するよ。後で総務の担当者に伝えておくから手続きはそっちでやってくれ。」「営業のために今度組合のパンフレットを作ろうと思ってまして、そこに御社が取引先と記載してもよろしいですか。」「別にいいよ。但し、契約が無くなったときは削除するというのが条件だけどいい?それと、笹岡が亡くなったの知ってました?」「いつですか。」悟は驚いた。「帰国してすぐだったかな。マラリアに罹って高熱が続いてそのまま亡くなったと聞いている。仲間内で簡単に葬儀を済ませたけどな。」悟は、驚きと無念な気持ちでいっぱいだった。話を済ませ、笹岡の住所と電話番号も聞いたので中條のいるオフィスを後にした。丸の内の本社ビルがあの時の日本海軍の戦艦のように不気味に思えた。

 組合に戻って結果を知らせると職員も喜んだ。フェニックスタクシーと関東無線協同組合の更なる発展に向けて悟の決意が強まった。1970年ももうすぐ終わりかけていた。