小説「暗転」~帝王が愛した女~ 5

《序章》 

徒花(あだばな)

 

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 1972年、ある政治家による政策綱領「日本列島改造論」が発表されると土地の価格が大幅な上昇を見せた。これにより急速なインフレーションも起きていた。翌年には第四次中東戦争が勃発し便乗値上げが起こり更なるインフレーションが加速した。

 1974年からは第一次オイルショックが起こり、インフレーションの加速により設備投資はもとより消費も落ち込んだ。何よりもタクシーの燃料代が大幅に高騰し、1970年よりも4倍の価格に跳ね上がっていた。

 悟は、この苦しい状況下で耐えることだけでなく次の一手も考えていた。燃料代の高騰、消費の落ち込みもあるがタクシー料金の値上げの効果もありここは銀行借入を返済し、支払利息を減らすという方法に打って出ることにした。2年はインフレーションは続くと考えたのだ。インフレが続けば政府も公定歩合を引き上げ短期で借入ている融資の支払利息も増加する。フェニックスタクシーは依然として借入残高が4億円と高止まりしていた。なんとかして、2年かけて半分の2億円にする計画を立て実行に移した。

 この嵐の中をフェニックスタクシーと関東無線協同組合はなんとか凌いだ。悟は組合員にも同様の手法、余分な不動産を売ってでも銀行借入を減らせと指南していた。この方法が組合員にも受け入れられ、後に悟は経営の面で絶大なる信頼を得ることになる。

 1976年には、借入残高を計画通りに2億円まで減らした。そして、中野駅南口から徒歩25分のところで環七沿いに400坪の土地の売り出しが出ていることを知り検討することにした。せっかく減らした借入残高をまた増やすのに反対する幹部もいたが、新宿や渋谷にもアクセスがよく今後ますます発展していくエリアなので、まとまった土地が売りに出た時はチャンスと考えたのだ。経済発展とともにだんだんとまとまった広さでアクセスのいい土地はなくなってきていたのだ。土地の取得費用、建設資金、タクシー認可料で5億円を借入した。1977年10月には4つ目の営業所となるフェニックスタクシー中野営業所がスタートした。全てが順調に回っていた。

 1978年末にOPECが段階的に原油価格を14.5%値上げすると発表した。更に、追い打ちをかけるように1979年にイラン革命が起こり、イランでの石油生産が中断したため、イランから大量の原油を購入していた日本は需給が逼迫した。こうして1979年からは第二次オイルショックが起こり第一次オイルショック並みの原油価格となった。予期せぬ事態であり悟は今回のは長引く可能性を感じ取っていた。中野の投資に不安を強く抱いた。悟もこの時すでに49歳になっていた。長男のはじめは22歳、父親の苦労は傍から見ても大変なことを理解していた。乗務員を採用し育て使っていく。時代の状況を見極めながら経営をコントロールしていくことのプレッシャーは相当なものであることを。国産車のタクシーも戦後よりもかなり良くなり同業他社は国産車に全て替えていたが、悟は相変わらずワーゲンにこだわった。非難するものもいたがフェニックスタクシーのトレードマークになっていた。これだけは変えずに続けるつもりでいた。

 悟がフェニックスタクシー練馬営業所を開設した1955年から日本経済は発展を続け1960年に入るとそれが加速し、いわゆる高度経済成長期に入り実質成長率が10%を超えた。石炭から石油への転換(エネルギー革命)、所得倍増計画、合成繊維,プラスチック,家電製品などの技術革新、石油化学コンビナートなどの重工業化・集中化が進行した。生活が豊かになったことでモータリゼーションが起こり、スーパーマーケットなどの大規模小売など流通革命も起きた。もちろんいいことばかりではない。急速な工業化は農村地区から大量に労働者を奪ってきた。これにより農村地区の過疎化、都心部の過密化、不動産価格の高騰、物価の上昇、公害問題などの負の遺産も生じた。

 まさに、悟の日本での事業の歴史は時代の波に乗りながら成長してきた高度経済歴史期と重なる。自惚れることもなく着実に経営してきたが、やはり時代の恩恵を受けていたのだ。

 当初は、悟は第一次オイルショックと同様に期間は長引くかもしれないがなんとか持ちこたえられると考えていた。しかし、燃料代の高騰に対して予想外にタクシー料金を上げることができないでいた。規制も厳しくなり価格転嫁の認可が前ほど大きく上げられなくなっていた。物価高騰もあり全営業所の年間売上高は20億円になっていた。しかし利益率は減少していた。燃料代の高騰、乗務員の採用難が重なりコストも大きく上昇していた。当然、残った利益から税金を引いた金額しか返済に回すことはできなかった。輸入車には高い関税もかけられワーゲンの取得費用も高かった。

 1980年、悟は家族全員で「隅田川花火大会」に出掛けた。どでかい花火は豊かさの象徴にも思えた。久しぶりの家族水入らずを楽しんだ。隅田川のどぶ臭さも花火の華麗さと家族とのひと時が忘れさせた。家族で浅草から錦糸町へ向けて歩きながら花火を楽しんだ。露天商も多く賑やかで人混みが多かったが疲れや不安を忘れさせてくれるのにはちょうど良かった。悟は、長男のはじめにこれからのことについて聞いてみた。「はじめは大学も卒業して商社に勤めているけど、大変だろ。」「大変だけど父さんほどでもないよ。そこそこのレベルの人たちが周りにいて会社はうまく行っている。」「そうか。タクシーは採用難だからなあ。なかなか募集しても来なくなってきているよ。安定を求め始めてきているんだよ。日本の社会全体が。」「そうだと思う。しかしそれが悪いとは思わない。安定がなければ成長発展がないのも事実だし。ただ、それにしがみつくだけなのが悪いと思う。商社では相場がしょっちゅう変わるし、それによって業績や会社の取引内容も大きく変更しなければならない。日本と違って海外はかなり疑ってかからないと騙されたり粗悪品をつかまされたりする。」「随分と立派になったもんだなあ。お母さんの躾と教育が良かったのだろうなあ。」「そうかな。父さんにも母さんにも感謝しているよ。」悟は、嬉しかった。そして、今まで記憶の片隅に埋もれていた笹岡のことを思い出していた。中條から亡くなったことを聞いてから行こう行こうと思っていながら仕事にかまけて行けてないことを悔やんでいた。秋になって落ち着いたら線香でもあげに行こうと決心した。

 秋になっても一向に利益率は好転しなかった。中野営業所の設立に要した5億円と運転資金5億円を東部信用金庫から借入ていた。毎年決算書を提出していたが、返済能力に疑義を持たれ営業所ベースで言うと中野営業所が厳しいこともあり、営業所を閉めるよう施されていた。悟の口癖になっていたが、来年には好転するからもう少し様子を見てほしいと言い続けるしかなかった。本来であれば、一番業績に寄与するはずの立地なのになぜか振るわなかった。そして、悟は執拗に信用金庫から売却を迫られていたこともあり、担当者に一度内部精査してほしいと依頼した。そうすれば中野営業所の将来性を理解してもらえると考えたからだ。

 1980年11月に信用金庫から3人の行員がやってきて、中野営業所の売上、人件費、伝票ありとあらゆるものを営業所内で開示し精査してもらった。精査には3週間がかかった。そこで、驚くべき事実を告げられる。なんと、売上高は過少に計上され、乗務員は架空の人間を計上して会社のお金を所長と課長職が抜いていたのだ。総額で1億円強になった。悟はすぐさま所長と課長を呼び事実確認を行った。当然二人は認めた。遊興費に使ったと言っていた。横領したお金はもう残っていないといったが、悟は刑事告訴するといいその場で懲戒解雇した。信用していた社員に裏切られたのだ。家族と同じと考えていたのに。

 悟はこれまで関東無線協同組合の組合長でもあることから、そちらに重心をおいてきたがこれからは自社の経営に力を注がねばならないと思った。あまりにも人任せにし過ぎていたのだ。しかし、この結果を踏まえて東部信用金庫は信用問題ありと認定し中野営業所に対する貸付金の一括弁済を求めてきた。交渉の余地なしという判断になり、悟は初めて営業所を手放すことにした。担保に押さえられていたので、東部信用金庫に提供する替わりに5億円を免除してもらった。本来であれば荻窪営業所を売却し、中野営業所を残すのが資産価値から見ても妥当だったが、信用金庫の言うがままにそうした。中野営業所は後年、東部信用金庫中野通支店となっていた。

 12月にもなると、気が晴れることもなかったが来年から心機一転経営のてこ入れをする意気込みでいた。クリスマスイブの日の夜、いつも通り悟は風呂に入り、上がってからは気持ちも良かったので居間でくつろいでいた。そしてその時、突然胸に激痛が走った。「お母さん、あきな。」そう叫んでいた。善福寺の自宅から東京女子医大に救急車で運ばれたが、既に死亡していた。岩城悟、享年50歳。

                              ―序章 完―