小説「暗転」~帝王が愛した女~ 6

《第1章 はじまり》

 

匕首(あいくち)

 

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 1980年12月31日までに、妻あきなを喪主に悟の告別式と火葬を終えた。すべてが慌ただしく行われ悟の人生を表しているようであった。

 年が明け主人のいない岩城家は静まりかえっていた。そして、今後のフェニックスタクシーをどうするかという話が次第に話題になるようになった。明確な回答ができる者はだれもいなかった。ただ、誰かがやらなければならないということだけは、分かっていた。あきなはしばらくは暫定的に私がやってしっかり検討してから社長を決めましょうということになった。

 会社内では、今後の動向に不安を感じる人、力を合わせてがんばろうと思う人、いろいろな思いが交錯していた。関東無線協同組合の方はいざという時のため、副組合長がいて、組合長になにかあった時は組合長に就任する旨が規約に記されていた。このため関東無線協同組合はなんとか支障なく業務が継続されることになった。

 1981年3月の四十九日が終わったあと、悟が眠る熱海日金山霊園にみんなで線香を上げに行くことにした。もともと海を渡ってやってきたこと、佐世保が日本でのスタートであったことを考えて海が見える墓地がいいとあきなが言ったのがきっかけだった。そこでのお参りを終えた後、長男のはじめがおもむろに言った。「俺が父さんのあとを引き継いでフェニックスタクシーの社長になる。まだ24歳の若造だけど。いいよね、母さん。」「お前がそれでいいって言うなら母さんは反対しないわ。父さんもきっと喜ぶし、父さんの跡を継げるのはお前しかいない。これからの人生はとても辛いことが多くなるかもしれないけど、みんなで力を合わせて乗り切っていきましょう。」

 ここで岩城はじめ、24歳第2代目フェニックスタクシー社長就任が決まった。波乱のはじまりだった。熱海の青空にあらゆるものの音が吸い込まれ一瞬無音になった。

 はじめは勤めていた商社の退職の手続きも終え、社長就任のあいさつであちこちを回っていた。社員の中には異議を申すものもいたが、次第に理解された。関東無線協同組合については、当面は現在の組合長が続け、はじめがタクシー業界に慣れてからバトンタッチをするということになった。フェニックスタクシーの出資比率が一番高いこと悟がはじめたものであることを組合員は知っていたからこそ、はじめにバトンタッチするのが当然だとみんなが認めていた。順調にはじめに交代されていった。しかし、ここで見ず知らずの朝鮮系の人たちがはじめの前に現れた。話を聞いてみると、フェニックスタクシー立ち上げの時に出資した方々だった。悟がなくなりはじめとは縁もゆかりもないので返してほしいということだった。大体20人くらいだった。会社の帳簿にはだれが出資したという記録はなかった。しかし、生前仲間から出資を受けて会社を立ち上げたという話だけは聞かされていたので疑う余地はなかった。全員の出資額を合計するとそれほどおかしくもなかった。後日、弁護士を入れて話をするということで全員の連絡先を聞いた。はじめは、就任早々難問に出くわした。弁護士と相談すると返済する法的根拠が何もないということになった。はじめは、出資者と言ってきた全員に出資したときに何か領収書のようなものがないか、あれば見せてほしいと伝えた。すると悟の筆跡で領収書が確かにあった。みな高齢者ばかりだった。配当が一度もなかったので、元本と配当金45年分を払ってほしいというのが要求だった。かなりの額になりそうだった。「今後定期的に配当を致しますので、継続して出資していただけませんか。」はじめは全員にお願いした。しかし、年齢も手伝ってか元本と配当金ですぐさま精算したいといって譲らなかった。弁護士とも相談して、心象を悪くして商売に差し障りがあるといけないから精算することにした。会社に余裕がなかったこともあり、母親のあきなと相談して善福寺の自宅を売却して清算金に充当することにした。思い出のある家だったのでとても悔しかった。思いのほか高く売れたので、清算金を払った後の残金で中野に小さな家を買った。善福寺の風光明媚な邸宅からすると寂しい気もしたが、家族で暮らせればそれでいいと自分に言い聞かせた。

 その後も、自称出資者という人がたくさん現れ、断ると恫喝されたり大変な思いを経験した。1984年までその騒動は続いたが、断固拒絶した。

 はじめは、商社にいた経験から状況分析と交渉力に長けていた。悟が第一次オイルショック時にやってのけた手法がまだ使えると考えていた。それは、インフレはまだ終わってなくこれからも起こりうる可能性が高いことだ。インフレがはじまる前に借入を増やし頂点に達したと判断したときに返済に回るというものだ。資金収支は安定的に黒字を維持しなければならない。経営を盤石なものにしてもっともっと会社を大きくしたいと考えた。まずは、板橋区と大田区に営業所の二つ開設し、建物を高層化し一階部分以外は賃貸に回して賃料を得るビジネスモデルにしようとした。次に、固定資産依存型のビジネスモデルばかりではなく、物も売りたいと考えた。商社にいた付き合いからワインビジネスもやろうと考えた。

 板橋区とはいっても広いので環七沿いで探した。フェニックスタクシーの営業所は環七で結びついているから環七を制覇したいと考えた。300坪程度の小振りなものだったが容積率が取れるのでなんとかなると思った。あとはどこの銀行から融資を受けるかということだった。東部信用金庫は、当初中野営業所だったところを担保に取られ今は繁盛している中野通支店になっていた。そのこともあり、はじめは東部信用金庫にいい感情をもっていなかった。商工銀行というところが融資をしたいといってきたので、支店のある新宿に話を聞きに行った。以前に出資者の方に丁重に対応されたという話を新宿支店長は聞いてはじめの人柄を理解していたのだ。支店長の多賀は「お若いのに大変ご苦労なさって大変ですね。御社の出資者だった方で当行とも取引のある社長さんが何かあったら助けてやってくれと言ってました。」「そうでしたか。あの時は突然大勢でやってきて金を返してほしいとなり自宅を売却して返済しました。しかたがないことですが運が悪かったと思い悔しかったです。」「そのことを知って出資者の方たちが思い切りのいい青年だと言ったそうです。」「何がいいのか分かりませんけど、自分が決断しやったことというのは、後日結果という形で出るものですね。」「そうだと思います。当行で御社の支援をさせてください。はじめさんの経営ビジョンはこれからのタクシー業界では必ず模範になるものだと思います。なかなか利益を出すことが困難な業界ですから一石を投じることになると思います。」「是非ともよろしくお願いします。」こうして、フェニックスタクシーと商工銀行との取引が開始されることになった。あとは大田区に土地を探すことだけだった。日本経済がまだまだ右肩あがりで成長し、会社の重役やVIPな来賓のためにタクシーよりも高級感のあるハイヤーの需要が増えると考えたからだ。ハイヤーとタクシーの2WAYで経営できる場所がいいと思った。ハイヤーはタクシーと違って規制が無いに等しかった。商社にいた感覚から訪日客も増えることは間違いないし輸出も旺盛になることから大田区はビジネスマンのルツボになると思った。

 当然成田空港はあるが香港に行ったことがあるはじめは、騒音の問題は発生するがやはり市街地にアクセスのいいところの空港の方が利用者が多く、継続して発展することを知っていた。羽田空港の国際化はかなり後になるのだが。

 しかし、なかなかいい立地の土地が出てこなかった。平和島でタクシーをやっている会社から業績不振で買ってくれないかという話があったが、それを買ったとしてもはじめでもうまく経営することは困難だと思った。品川区と大田区をうまくつなげる場所に営業所を構えたかったのだ。当然ながら目黒区と港区も視野に入れていた。

 情報収集に余念がなかったが、一向にいい物件情報はなかった。板橋区の方が順調に売買契約と融資にこぎ着けあとは建物の建設と陸運支局の認可を受けることが残った。不動産事業に関しては、はじめは素人だったので商工銀行から新宿で不動産だけでなく設計事務所もやっている会社の紹介を受けた。認可を申請するにあたって、認可台数87台分の駐車スペースを確保し、また賃貸部分の導線も確保しなければならないので設計はかなり難度の高いものになった。3か月を要したが5階立ての建物になった。無事に確認申請が通り着工となった。

 時は1982年3月になっていた。アスベストの問題が徐々に社会問題化されはじめた。そこに1970年に建設され工場を経営していた方から工場として場所が手狭になったので売却して京浜島の方へ移転したいという話が商工銀行経由で入ってきた。場所は浅草線馬込駅から徒歩15分の好立地の場所で400坪はあった。しかし、問題はアスベストを使用した建物であることだった。借入残高の少ない担保物件だったこととアスベストのことで比較的安く手に入りそうだった。解体コストを考慮しても十分採算はとれた。この物件を取得して不動産事業と兼業にすると板橋区の物件と合わせて22億円の資金が必要だった。既に板橋区で7億円借り入れていた。追加であと15億円の借入をする必要があった。商工銀行多賀支店長に状況を説明すると、現地確認など入念な調査が行われ支援してもらえることになった。タクシー事業の将来性と浅草線沿線がますます開発されベッドタウン化されれば万が一タクシー事業が失敗しても、不動産としての価値は絶大であると判断したようだ。

 こうして馬込の不動産も銀行借入でスタートする目途がたった。1983年9月には板橋区の物件は板橋営業所として正式にスタートし、タクシー事業だけでなく賃貸事業も即日満室になった。馬込の解体工事には時間がかかったが、1984年10月から馬込営業所としてスタートできそうだった。駐車場は自走式立体駐車場にしタクシーとハイヤーの保有台数が150台は可能であった。敷地内に一棟建てるだけでなく二棟建てることにした。借入残高は1983年12月末で30億円を超えていた。

 1984年6月かねてより交際のあった坂上啓子とはじめは結婚した。結婚式は、啓子のすすめもあってキリスト教ではなかったが、目白にある聖カテドラル教会であげた。つつましくも素敵な結婚式になった。はじめはもう27歳になっていた。馬込営業所設立に目途が立ったため、長らく理事会にしか出ていなかった関東無線協同組合の仕事に注力できると考えた。組合員にもその旨伝えて了承を得た。特別変わった様子はなかったが、なにか時代から取り残されつつある気配を感じていた。はじめは、商社での仕事に誇りをもっていた。それは、今まで考えられなかった物や人を結びつけることができる仕事だからだ。小さくまとまるのは嫌だった。関東無線協同組合を全国規模のコールセンターに拡大させたいと思った。それを可能にするのは、MCA無線*1を導入するしかないというところまで調べ上げた。しかし、組合員は全員反対した。タクシーは地域に密着しておりあまり距離が離れるとネットワーク化ができない事業だからだ。地図を見ながら良く分からない地域の乗務員に指示を出すのは到底無理だと判断したからだ。これはある意味当たっていた。はじめは地方のタクシー事情を知らなさ過ぎた。地方は電話で予約されるか、駅での乗客を乗せるかの二つが主流なのでそれほど無線を使うことが無かったからだ。せめて関東圏だけで勝負するという説明であれば賛同を得られたかもしれない。電話による問い合わせ本数の増加とそれに対応する配車を考えれば十分に意味のある設備投資だったことに相違なかった。説明の仕方がまずかったのだ。MCA無線の強みはとにかく良くつながることだった。今の無線方式では音質もよくなくちょっと郊外に行くとつながらない場合も多く乗務員からの不満も出ていたからだ。はじめが自社の経営に没頭している間に組合員も世代交代が行われていた。

 はじめは、どうしても全国展開を意図していたのでこれを理事会にかけて審議したいと述べた。組合員も了承し理事会が開かれた。出資比率は筆頭のフェニックスタクシーだったが、MCA無線の導入議案は否決され同時にはじめの解任動議がだされた。まさかの解任動議にはじめは慄いた。「おれは筆頭出資者だぞ。」「規約に基づいて審議をし、はじめ社長以外全員解任に賛成で可決です。今までお疲れさまでした。出資金については、要請があれば全額買い取ります。」当初は、フェニックスタクシー高円寺営業所にあった関東無線協同組合であったが、はじめが社長に就任してからしばらくして新宿の新大久保に移転していた。いとも簡単に解任され心にぽっかりと穴が空いた感じだった。しばらくは、従業員には心配させたくないから伏せておこうと思った。そして、このような事態が後にはじめの人生とフェニックスタクシーに影を落とすことになるとはだれも気付かなかった。

 

 

 

*1:MCA無線は800MHz帯の電波を利用したデジタル業務用移動通信です。
マルチチャンネルアクセス方式という複数の定められた周波数を複数のユーザーで共同使用して通信を行います。中継局が複数の通信チャンネル(周波数)から自動的に空きチャンネルを選択して割りあてる通信方式を取っており、一定数の通信チャンネルを多数の利用者がスムーズに通話を行う事を可能にします。出典:田中電気株式会社