小説「暗転」~帝王が愛した女~ 10

《第二章 時代の流れ》

傍流(ぼうりゅう)

 

 

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 1987年はじめと啓子の間に待望の男の子が産まれた。名前は直久にした。まっすぐに生きてほしいという願いから付けられた名前だ。会社の全体の売上高も100億円を超えていた。フェニックスタクシー史上最も安定していた時期だ。ワイン事業も杉並区界隈のレストラン経営者を多数お客さんに持ち、食後にタクシーを利用したいお客様に優先的に斡旋してもらえた。また、銀座のクラブにも卸すようになり水商売関係の経営者ともネットワークができた。クラブに高級ワインを卸し、タクシーが必要なお客様にフェニックスタクシーを斡旋してもらう。この異色の組み合わせは、はじめが最初から意図していたわけではなかったが、法人契約している法人の幹部の方の利用との相乗効果でもあった。これまで行ってきた経営努力が、点と点が線で結び付き合い有機的に紡ぎ合い始めていた。はじめは、30歳になっていた。

 洋子の方は、全営業所の就業規則と賃金規定の順守と運用を任されていた。乗務員の間ではアイドル的存在にいつしかなっていた。洋子に会ってみたいと言って応募してくる乗務員がいるほど、タクシー業界では美人で通っていた。異例の人事で洋子は、総務部係長に昇格していた。だれも反対者がいないほどの成果を上げていた。

 ある日、丸友物産食品の赤池裕一が挨拶にきた。近々会社を退職して、税理士資格を取得して税理士として独立するという目標を語っていた。はじめは驚いて問いただした。「大手企業の中にいた方が大きい仕事もできるし、傍から見ていると上手くやってたじゃないですか。どうしてお辞めになられるのですか。もったいないですよ。」「色々な企業の方とお近づきになれるし、楽しいですが、中小企業の経営者の方たちとお会いして思うのは、もっとうまくやれば会社も大きくなるし大きな取引もできるのにノウハウがないばかりに小さいままかあるいは最悪倒産に至っているのです。それを解決してあげて役に立ちたいと思い辞める決心をしました。独立した際には、またご挨拶に参ります。」「頑張ってください。応援しています。」意外な別れだった。一番口うるさかった人が会社を去った。

 いつまでも遅くまで残って仕事をしている洋子に、はじめは声をかけた。「どうしてそんなに頑張れるの。いつも気になってたんだ。」「仕事が楽しいのとみんなに頼りにされているのが分かるのでついつい頑張ってしまいます。乗務員さんのがんばりが会社の売上につながりますので、その部分を任されていると思ってます。経営的にも、とても意義のある大切な部分だと思っています。」「確かにそうだね。君が入社してから稼働平均も上がっているし、離職率も減少傾向にある。実は各営業所長から君に明け番集会に参加してほしいと言われてる。乗務員の士気も上がるからだそうだ。かなり人気があるみたいだぞ、君は。」「私は別に参加してもいいです。何時からやられてますか。」「朝7時からやっているよ。特製のおにぎりとお茶が出る。でも朝早いからダメだと俺が断っている。月に一度かぎりの集会なんだけれども、女性には少し酷な時間帯だからね。」「私なら大丈夫ですよ。どの営業所にも始発で行けば間に合いますから。これから、明け番集会に総務として出席します。そこで乗務員さんの生の声を聞いてこれからの規定の改定にも役立たせていきたいと思います。」「本当に君は前向きだね。よし、分かったこれからの明け番集会に出てくれ。所長には言っておく。追って君の方に日程とか連絡させる。いいね?」「はい、よろしくお願いします。」はじめは、また気になっていたことを洋子に聞いてみた。嫌われるかもしれないという不安もあったが。「付き合っている人とかいないの。」「今はいません。というより離婚してからはどなたともお付き合いしておりません。」「もう男が嫌いになった?」「そんなことはありませんが、離婚する際に大分嫌な思いもしましたので、今はただ仕事をして祖母や母と暮らせてるので十分なだけです。多くを望んでおりません。」「好きな人ができても付き合わないの?」「それは分かりません。でも好きになれば付き合うと思います。過去の嫌な思いを忘れるような恋なら。」「安心した。あまり無理しないで帰りなさい。」そういうとはじめは会社を後にして自宅に帰った。

 家では、子供と啓子と母のあきながいた。「だんだん手狭になってきたからどこかにもっと大きな家を買って引っ越そうか?」家族のみんなが反対した。「今会社の方は順調かもしれないけどいつまでも続かないんだから。」母のあきなが言った。「母さんそうかもしれないけど、そんなこと言ってたら何も楽しめないよ。大豪邸とは言わないまでも、敷地面積は100坪は欲しい。そこで庭があって花壇もある家が欲しいんだ。せっかく子供も出来たし生活に潤いがあった方がいい。少し考えておいてほしい。」

 はじめの成功はタクシー業界だけでなく近隣の中小企業の社長の間でも有名だった。経営相談に来られる方も多数いて、必要な人材や企業を紹介したりした。その時は、洋子も同席していたので社長秘書として来客からは受け止められていた。いろんな輩がやってきては金の無心もあったが手際よく洋子は処理した。

 はじめはタクシー業界の会合に、関東無線協同組合を脱退してからはじめて出席した。久しぶりなので落ち着かなかった。大手四社主導ではあったし、フェニックスタクシー脱退後も積極的な勧誘で関東無線も業界では一大勢力になっていた。何か居場所のない疎外感をはじめは感じた。そのなかでも、先代の悟が大手四社の一角の大和モータースの経営悪化の際に、第三者割当増資に応じていて個人では大株主になっていた。その関係もあり大和の社長の中島社長ははじめには親切に対応してくれた。業界が今後進んでいく方向、お客様のニーズの多様化も話し合った。その話の中で特に気を引いたのはハイヤー事業は儲からないということだった。お客様に請求する根拠ベースから勘案すると儲からない仕組みになっていた。それはどういうことかと言うと、お客様には実際の走行距離で請求するが、ハイヤー乗務員の給与は時間で支給する仕組みだからだ。往復の移動距離は請求金額に含まれず、乗務員にはその移動時間も給与として支給しなければならないからだ。はじめは、洋子を通してハイヤー事業の検証をしなければならないと考えた。会合も終わり二次会が予定されていたが、はじめは断った。気持ち的にも満たされないものがあったので、兼ねてから飲みに来て欲しいと誘われていた銀座のクラブ「deep sea」に行ってみることにした。はじめにとっての銀座デビューだった。ワイン事業部のワインとりわけ「シャトー・ラフィット・ロートシルト」と「シャトー・ムートン・ロートシルト」をいつも大量に買い付けてくれた。

 「やっと来てくれた。」ママの典子が嬉しそうに言った。「今タクシー業界の会合の帰りなんだ。せっかくだから、シャトー・ムートン・ロートシルトをボトルで入れてもらおうかな。すぐ空けちゃうけど。」久しぶりにくつろぎながらワインを飲んだ。「シルクのような舌ざわりがいいんだよね。やっぱりいい味だ。」はじめは少し饒舌になった。「あたしも一杯いただいていいかしら。」「ああ飲んでくれ。俺のおごりだよ。」結局はじめはボルドーの5銘柄を全て飲み干した。かなり酔いが回っていたが心がすっきりした。しかし会計を見て驚いた。「大した年代物でもないのにボルドー5本とフルーツで100万円もするんだな。フェニックスタクシーで請求してもらえますか。」「かしこまりました。また来てくださいね。社長に会わせてくれと言ってうるさい方がおりますので、一度だけで結構ですので会っていただきたいです。」「分かった。また飲みに来たくなったら事前に連絡するからそれで調整してください。」「ほんとにまた来てくださいね。」帰りは自社のタクシーだった。はじめは、信頼を寄せている乗務員を三人もっていた。車内で今日の業界会合の話をした。「俺は業界で浮いた存在のようだ。」「仕方ないんじゃないですか。業界初というのをいくつも手掛け成功を収めているから。妬みもあると思います。私たちにとっては、安定してお給料も頂け楽しく生活できているので満足してますよ。他社に行きたいとかいうやつは周りでいないですよ。いたとすれば、働く気のない営収の少ないひとだけです。そういうのは、どこへ行っても勤まらないから。」「そう言ってもらえると、ありがたいよ。敷地面積の関係からまだ増車の余地があるからもっと拡大させたいと思っている。土地は高くなってきているから新たに買う気はないけど、増車で対応し売上と利益の底上げをはかりたいと思っている。」「洋子さんと相談してからやってくださいよ。今ではフェニックスの影の司令塔と言われてますから。」「彼女はみんなに何か指示しているのか。」「営業所の整理整頓、車の洗車と車内の掃除機掛け、シートカバーの小まめな交換とかですけど。」車内で大笑いした。「本当に彼女が入ってきてからフェニックスは綺麗になりましたよ。彼女のように。この間なんかはお客さんから加齢臭が今までしていたのに、車内の匂いがさわやかになったなんて言われましたから。おまけに車も新しくしたのかと言われたり。ただ洗車してワックス掛けしただけなのに。」「おまえらも大変だな。」はじめは酔いが回っていたこともあったが更に気分が良くなった。自宅に到着するとそのまま深い眠りについた。

 しばらくして、クラブ「deep sea」から100万円の請求書が総務に届けられ開封した洋子からはじめは怒られた。「社長、使い過ぎですよ。会社の台所も考えて使ってください。」「申し訳ない。自分もはじめてで、いくらになるのか分からなかったこともあったし少し飲みすぎた。今度は気を付けるから処理して欲しい。」「分かりました。今回だけですよ。ワイン事業の利益の50%までを上限に交際費として使ってもらえるといいです。」「分かりました。以後気を付けます。話は変わるけど、今度ついてきて欲しいところがある。先日のタクシー業界の会合でふと思いついたことなんだけど、親父が日本に来るきっかけとなった韓国の仁川広域市の港に一緒についてきてほしい。一度見ておきたいと考えた。」「航空券の手配とかありますので、日程が決まりましたら事前に教えてください。」「できるかぎり早く行こう。」「あとで旅行代理店に問い合わせてみます。」

 

仁川広域市

 

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出典:韓国の旅デザイン

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出典:コトバンク

大韓民国の北部西海岸の交通・文化・産業の中心地である仁川の西部に位置し、首都ソウルへの空と海の玄関となっています。国際交易港である仁川港の繁栄とともに栄えてきたまちです。仁川港には東洋最大の閘門式ドック(潮足の差に対応するため)が設置されているなど港湾施設が整備されており、東北アジア有数の貿易港。市域には12の無人島を含め18の島があります。
 仁川国際空港の開港によりアジア有数の空港都市となるとともに、月尾島や永宗島などの観光資源を生かした海洋観光開発(「国際休養観光団地」)に力を入れています。
出典:成田市

 

 はじめにとっても洋子にとっても生まれて初めての韓国であった。二人は成田空港から韓国の金浦国際空港に向けて出発した。そしてバスを乗り継いで仁川広域市の港についた。洋子は嬉しさのあまり「綺麗な海ね。」とつい叫んでしまった。はじめもそう思った。想像以上に綺麗な海だった。ここから親父は日本に来たんだ。戦争の面影なんか微塵もなかった。えも言えぬ孤独感がはじめを襲い始めていたが、そんな気分を一蹴するような青い空と海が目の前にはあった。それを洋子とこうして見ることができたことに感謝していた。その時、洋子ははじめにそっと木箱を渡した。「祖父からの預かり物です。」はじめは最初なんのことか分からなかったがそっと開けてみた。「金でできてるじゃないか。凄い串刺しだね。重みもあるから飾り物かな。」「岩城悟さんと日本に到着した時に預かったようです。事業で成功したときに返しに行くという約束だったようです。祖父と社長のお父さんとは戦時中そういう関係だったようです。この地に社長が行きたいと言われたときから、ここでお返ししようと思っていました。」「何か私たちには力の及ばない運命の糸に操られているのかもね。偶然が重なりすぎてる。」はじめはそう感じていた。
 二人の間の時間の速さが光の速さを超え一瞬時が止まった。特別な光に二人は包まれていた。