小説「暗転」~帝王が愛した女~ 12

《第二章 時代の流れ》

 

和衷(わちゅう)

 

 

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  1989年は日本経済が世界最強を謳歌していた年だ。ジャパンアズナンバーワンと言われ二度のオイルショックからも立ち直り、高度経済成長がもたらされた時代から黄金の1980年代に突入する。ハイテクブームからバブル経済へと移行した。日本のものづくりが世界的に高く評価され、それを支えた終身雇用、年功序列賃金、福利厚生の充実、長期的視点での利益追求、小さい賃金格差、優秀な官僚主導の産業育成、学習意欲の高さ、読書量が相対的に米国の2倍、数学力は世界的2位という水準の高さもあった。

 さらに、生産年齢人口が子供と老人より多い「人口ボーナス」という状況にあったことも、経済成長を支えた要因として挙げられた。全てが良いことばかりではなかった。日本人のアイデンティティを、「一億総中流」、「没個性」といった横並び意識が強く、内向きな性向としてものづくりには適した部分でもあったが、のちにこれが仇になった。

 昭和天皇の崩御で一年がはじまり、リクルート事件では創業者が東京地検に逮捕、政治家の汚職、政治献金問題、4月には消費税法施行消費税率3%でスタート、東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件と目まぐるしくもあり、またこれまでの日本経済の総決算というべきことが数多く起きていた。バブル経済の頂点の時期でもあった。株価は日経平均が3万円台に乗り4万円台乗せは確実と言われまた為替は1ドル140円台と円安が貿易収支にも有利に働いていた。

 はじめは、会社の事業、部門、社員の年齢構成とを過去3年間分の分析を行った。この頃には総務と経理が合併し管理部となっていた。その課長代理に洋子は昇格していた。売上高、利益、利益率、従業員の士気ともに問題は見当たらなかった。保有台数はハイヤーも併せて607台のままだった。久しぶりに銀座のクラブ「deep sea」にはじめは顔を出した。「ママ、久しぶり。少し飲ませてくれよ。」「大分ご無沙汰ね。岩城社長。業界の帝王と呼ばれているようだから、さぞかし忙しかったのでしょうね。」「ママまで俺に嫌味を言うのかね。帝王と言っても無冠だけどね。」「ずいぶん謙遜するのね。業界関係者が遊びに来ると、必ずフェニックスタクシーの話題で持ち切りだったんだから。」「それはそうと、水割りをくれ。」「はい、おしぼりどうぞ。」「ありがとう。ちょっと相談があるんだが乗ってくれるか。」「珍しいわね。あたしで分かることなら。」「会社の業績の分析をしてみて分かったのだけれども、今がピークだっていうことなんだ。保有台数もしばらく607台のままだ。これ以上は現在の経営資源では成長が望めない。行き詰っている。」「数々のアイディアを具現化してきた岩城社長に閃かないことを、私がアドバイスできることはありませんよ。」「単純に規模の拡大だけをしても意味がないと思うし、悩むところなんだ。」「どの業界も儲かってしょうがないというご時世に、どうしたらいいか悩んでいるのは社長だけですよ。消費税の影響もほとんどないとどの業界も幹部の方たちも言ってましたし、今を少しだけ楽しんだらどうですか。」「それができたら苦労しないよ。」ママにメモが差し入れられた。「社長、以前ご紹介したい人がいるって言ってたの覚えていらっしゃいますか。」「そういえばそんなこと言ってたな。」「今、その方がお店にいらしていて是非ご紹介していただきたいそうです。」「いいよ。会おうじゃないか。」ママはその男を連れてきた。タニマチ風の人たちといっしょだった。「赤木圭一と申します。はじめまして。お噂はかねがね伺っております。ボクシングのプロモーターをしております。」「ボクシングのプロモーターですか?はじめてそういう方とお話します。今までタクシー一筋の人生でしたから。」「ボクシングにご興味はありませんか。これから伸びそうな選手にスポンサーになってもらい、ボクシングパンツに会社名を入れて広告宣伝するという方法です。興味がございましたら詳しくご説明いたしますので、名刺の連絡先までご連絡ください。どうもお邪魔しました。」いっしょにきた仲間の元へ戻っていった。「ママ、彼はここによく来るのかい。」「月に一回くらいかな。お仲間といつもいっしょだけれど。」「今夜は帰るよ。何かいい情報があったら会社にでもいいから連絡して。」「分かったわ。」

 年始に管理部長に就任した商工銀行出身の岸部長と洋子と三人で今後のフェニックスタクシーについて打ち合わせをした。岸は銀行出身らしく緻密な分析を行い、会社に特段の問題がないということだけは把握していた。洋子も問題は見当たらないという回答だった。はじめは、更なる成長ステージに会社経営をシフトしたかったのだ。いつも何かしていないと落ち着かない性格であった。

 家族で久しぶり墓参りに行くことにした。熱海日金山霊園に来るのは本当に久しぶりだった。「最低でも年に二回はお参りに来ないと親不孝だな。でもここの見晴らしは素晴らしい。岩城家の墓地をここに決めて正解だったな。」「あなた突然どうしたの、墓参りだなんて。」「フェニックスタクシーの将来について、イメージできなくなってきているから、親父の声でも聞いてみようかと思ったところだ。」「会社に何か問題でもあるの。」「業績的には何も心配することはない。ただ、このままだと現状維持が関の山でゆるやかな衰退に向かうのではないかという不安があってね。少し心配症なのは分かっている。恐らく会社内でも業界内でもこんなことで不安になってる人はいないだろうから。」「そんなことだと長生きできませんよ。」「岩城家は元来、短命の家系だからなあ。」「あなた、冗談でもそんなことは言わないでください。お母さまも直久もそして私がいるんだから。あなたがいなくなったらどうするんですか。」「すまない。冗談のつもりだったんだけれど、相変わらず真面目に受け止めるからこっちが驚いた。」

 熱海の海を見ながら、洋子といっしょに見た仁川広域市の青く澄んだ空と海を思い出していた。はじめはモヤモヤする気持ちを抱えながら次の一手が打てないでいた。いい機会だからいろんな業界の人たちとゴルフに出かけては、ビジネスの話を切り出した。しかし、だれと話しをしても投資とか利殖の話ばかりではじめが望むような話題は出てこなかった。

 ある日の夜、管理部の岸部長と洋子と三人で築地に寿司を食べに行くことにした。「岸さん、会社に慣れましたか。」「ええ、笹岡さんの面倒見がいいので営業所の方々とも自然に仲良くなれました。仕事の方も笹岡さんが時間をかけて総務や人事や経理の整備をなさってきたから、非常に分かりやすく助かっております。」「笹岡くん、部長に褒められたな。」「当然のことをしてきただけです。」「笹岡さん、当然のことと言えるのは凄いことなんだよ。銀行では雑用はやりたくないとか、言われたこと以外はやりませんとか、時間が来たら帰るとか仕事を真摯にやる人ってなかなかいないもんだよ。この間練馬営業所の統括部長が、自分より笹岡さんの方が全営業所の職員、乗務員の間では知らない人がいないくらい有名人だっていってましたよ。」「もう、統括はそんなこと言ってたんですか。今度お仕置きしないといけませんね。だからみんなに女帝が来たなんて言われるんですよ。もちろん冗談半分ですけど。」洋子は少しお茶目に言った。「いいじゃないか。実際実務も切り盛りしているし、社長の俺の交際費にも認めないものもあるしやっぱり女帝だよ。」はじめは笑いながら言った。「社長まで言いすぎですよ。」「怒った、怒った。」子供のようにはじめははしゃいだ。何年ぶりだろうと思うくらい楽しい時間だった。寿司が出てきた。最初はひかりものからだった。ビールと寿司は相性がいいのでみんながすぐに食べ終えた。「社長、どうしてひかりものから注文したのですか。普通、まぐろとかトロとかいくら、うにあたりを最初に頼みませんか。」「そうきたか。こはだやさばのような青魚は鮮度が分かりやすい。魚の大きさによって味が変わると言われている。それゆえに〆具合も変えないと美味しくない。そこに寿司職人の腕が出る。ひかりものがうまいところは他のものでも美味しいということさ。」「社長は意外に物知りですよね。」「意外には余計だろ。」「あ、すいません。ついビールとお寿司が美味しいので口が滑っちゃいました。」「社長、私も今までそんなこと気にせずにお寿司を食べてました。何事も奥が深いですね。」「次は大トロ、中トロ、赤身と出てくるから安心してください。それよりも、食べながらでいいから、話を聞いて欲しいんだ。タクシーの保有台数を1000台に向けて段階的に増車するか、どこかのタクシー会社を買収して1000台にするかあるいは異業種に参入するかどちらがいいと思う。」洋子は怪訝そうに言った。「社長、お酒が入っている中でそのような重要なことを話し合うのですか。素面のときに話し合うことではないですか。」「素面でいくら考えても思いつかないし、他の業界の方たちとも話したがいい結果が出なかったからこうして飲みながら相談してるんだろ。」「俺には、一般的な常識は通用しないよ。最初は常識で考えてみてから別の角度で考え直すというのが俺のスタイルなんだよ。何年おれのとこで働いている?」「すいませんでした。つい大事な話はお酒なしでするものだという固定概念がありました。」「いや、君の言ってることは正しい。けどこの話は大事だけれどアイディアの捻出でもあるんだ。時間はたっぷりある。楽しく食べながら議論しよう。」「社長、元銀行員として発言させていただけるのであれば、こんなに長きにわたって景気がいいのも史上初だと思います。株価も日経平均が5万円はいくんじゃないかというのもいます。でもいつまでも右肩上がりというのはありません。人でいえば永遠に笑い続ける人も泣き続ける人もいません。人の表情で一番多いのは無表情のときです。経済で言えば停滞期なのか充てん期というのかは分かりませんが今は何もせずに様子も見るというのも一つの手だと思います。動き回るばかりが経営ではないと思います。」「確かにそうだな。いくら真剣に分析しようが考えようが何も思いつかないということは機が熟していないということなのだろう。景気に変動が見られれば何か新しいビジネスも思いつくかもしれないしな。ここは無理をせず社内整備に力を入れよう。不用意に規模を拡大するほど今は安くないしな。」部長の岸は、家が千葉県柏市ということもあり、一次会で帰ってしまった。

 タクシーで移動して晴海ふ頭にきた。「二人っきりになるのは、仁川広域市以来だな。彼氏でもできたか。」「いいえ。それよりも金の串刺しは大切になさってますか。」「ああ、お仏壇に閉まってある。色んな思いが詰まっているから、実際の重量よりも重いよ。」「それは良かったです。」夜風にあたりながら二人は歩いた。「新しいことに安心してチャレンジできるようになったのも、君のおかげだと思っている。そして事業を前向きに考えた時に、そのことだけを考えていればいい環境を作ってくれたのも君だと思う。親父からの時を超えたプレゼントだったのかもな。」「酔ってるんですか。ずいぶんロマンチックなこと言うんですね。」はじめは、その時思いっきり洋子を抱きしめおでこにキスをした。「社長、どうしたんですか。」「すまない。ほんとに感謝の気持ちでいっぱいなんだ。不謹慎で申し訳ないけど許してくれ。」「いいえ、私は社長が好きだから。気にしないでください。」夜が静かに更けていった。二人の様子が他のタクシー会社の乗務員に見られているとも知らずに、二人だけの時間が過ぎて行った。