小説「暗転」~帝王が愛した女~ 13

《第二章 時代の流れ》

 

回想(かいそう)

 

 

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  洋子の祖父であり、はじめの父親の悟といっしょに朝鮮半島から日本へ逃げてきた笹岡一郎は、悟と別れてからすぐ佐世保の海軍病院で、マラリアに罹患してこの世を去った、1945年9月のことであった。遺体は、昭島市の実家に丁重に輸送された。実家には一郎の妻と息子夫妻がいた。一郎の妻が「やっと終戦を迎えてみんなで暮らせると思っていたのに。」と言うと、息子の弘明はおもむろにこう言った。「戦争で現地で亡くなられた人もいるんだから、遺体でも無事に家に帰ってきただけ良しとしないといけないんじゃないか。」「そうだけれども。母さん、ずっと待ってたから。」「今はただ静かに埋葬しよう。本当にお疲れさまでしたと言いたい。」一郎は、陸軍士官学校出ということもあり、葬儀には政府高官もみえた。そして、青山霊園に埋葬された。

 笹岡弘明は父、一郎が残した少しばかりの財産をもとに不動産会社を設立した。戦後の復興で、必ず不動産業は伸びると考えてのことだった。生活は少しだけ裕福だったが、子供ができなかった。暮らし向きが良くなっても、やはり子供がいないので寂しい家庭であった。明治神宮にも欠かさずお参りに二人で出かけていた。それでもなかなか子供ができなかった。1959年、弘明は36歳になっていた。思い切って二人で佐世保に旅行に行くことにした。当時の海軍病院は民間に払い下げられていた。佐世保は米国の空母を整備する義務を負っていたので、なぜかしらか周囲は物々しかった。一週間の滞在期間だったので、思う存分羽を伸ばそうと思っていた。まず、九十九島を遊覧船で二人で巡った。そして展望台からは九十九島の大パノラマが一望できるという芸術的光景も見れた。眼鏡岩、潜竜ヶ滝公園、長串山公園を見て回った。佐世保に鎮守府がおかれてから、太平洋戦争が終わるまでの約60年間に亡くなった海軍将兵17万余柱の霊が祀られている佐世保東山海軍墓地も歴史をかみしめながら見て歩いた。佐世保要塞 丸出山観測所跡にも行った。二人は想像していたより、佐世保が海も山もある観光地として素晴らしいところだと感銘を受けた。最後の夜は、佐世保軍港の夜景が見えるレストランで食事をとった。久しぶりに恋人に戻った気分で二人は夜景を楽しんだ。「お父様は、ここで亡くなられたのね。」弘明の妻の明子が言った。「今ほど整備されてなかっただろうけどいいところだよ。この佐世保は。」「本当よね。こんな素敵なところで亡くなられたのなら本望だったのかもしれない。」十分楽しんだ後二人は東京へ帰った。

 しばらくして、明子は体調がすぐれないことに気づいて、立川市にある立川病院で診てもらうことにした。診察結果は、体に問題があるわけではなく妊娠していることが分かった。この知らせを聞き弘明は驚きそして喜んだ。まさかの妊娠であったからだ。誰もが出産はもうないだろうと思っていた。1960年7月7日の七夕に洋子は生まれた。佐世保の海、太平洋から一字拝借し洋子としたのだ。年がいってからの子供だったので二人は可愛がった。そして洋子の祖母も初孫で可愛がった。学習院初等科から学習院大学経済学部まで進学した。部活動は、中等科から軽音楽部に所属してボーカルを担当していた。ノリのいいエイトビートのロックが好きだった。大学に進学すると月に一回ライブハウスでバンドと歌いまくった。バンド名はブリザードという名前だった。洋子の声は、その身体からは考えられないくらい声量があり伸びのある声だった。実際に、メーターがいつも思いっきり右に触れていた。美人でスタイルもよく歌もうまいので固定ファンがついていた。たまたまライブに居合わせたレコード会社の社員の目に留まり、オーディションを受けることになった。歌も上手くルックスもいいことからオーディションにパスしメジャーデビューすることになった。CDもたった一枚だけとなったが発売された。タイトルは「OVER THE SKY」。音楽番組で堂々の一位を獲得し一度だけテレビ出演した。コンサートも一度だけ行った。しかし、洋子はプライベートを大切にしたいと考え、大学卒業とともに芸能界から引退した。業界では知る人ぞという存在になった。ちょうどその頃、父の弘明は、杉並区善福寺に風光明媚なところにある不動産の売り物があることを知った。1982年のことだ。娘の洋子も芸能界から引退してまた昔のように静かに家族で暮らしたいと考えていたので、善福寺の不動産は即決で購入した。父一郎の頃から住んでいた昭島の家を売却し引越ししてきた。そして洋子は、父親のすすめもあり北海道でゴルフ場やスキー、温泉とリゾート開発を手掛けている会社の御曹司と結婚し北海道に嫁いでいった。洋子はその時24歳であった。

 結婚してから洋子はあることに気づいた。それは結婚相手が自分に望んでいたのは、芸能界で有名になった奥さんという肩書だけだったということだ。それでも、両親を心配させたくなかったので、我慢した。夫の会社ではなく近くの水産会社の事務で仕事を得た。なにも仕事なんかしなくてもいいと言われたが、そのまま家にいたら気が狂いそうだった。家事をこなしながら水産会社の方たちとの毎日の会話が楽しかった。北海道財界の集まりにはよく駆り出されたが、ただのお飾りであった。結婚してから一年が過ぎたころ、洋子の父、弘明が治療で東京女子医大に行く途中、トラックに跳ねられるという事故が起きた。急遽、東京に戻ってきた洋子夫婦だったが、旦那にはすべてが人ごとのようであった。悲しみにくれる洋子であったが旦那はあまり相手にしなかった。そんなぎくしゃくしながらも結婚生活を続けていたがとうとう洋子にも限界がきた。愛想が尽きたのだ。離婚届に署名捺印して家を出てきた。実家にもどってきた洋子を見た時、祖母も母も驚いたが洋子の気持ちを尊重した。洋子は26歳になっていた。時代は1986年、バブル経済のふもとにいた。

 

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