小説「暗転」~帝王が愛した女~ 14

 《第二章 時代の流れ》

 

無偏(むへん)

 

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 1989年3月、相変わらずタクシー業界にとって3月、4月は書入れ時だった。稼働率は90%を超えとにかく順調すぎるくらい順調だった。はじめは、とにかく会社の成長の種を見つけるために四苦八苦していた。業種を超えた会合にも貪欲に出席した。政治家を紹介するという人もいたが、それだけは断った。関わっていいことがないことをはじめは知っていたからだ。いいように利用されるだけだということを。必然的に酒を飲む機会が増えた。一週間に4日は酒を飲んでいた。これも仕事だと思って気にせず次の種を見つけるまで続けようと思っていた。仕事に没頭すればするほど、家庭を疎かにしてしまっていた。そんなはじめを洋子は心配していた。傍からはうまく行っているように見えても、経営者としてはそれに満足できないでいるはじめを洋子は特に気になっていた。ある時振り返ってみた時、だれも自分の後についてきてくれていなかったという風にならないことを願った。それが家庭であれ会社であれ。

 この頃になると株価も不動産価格もかなり高騰していた。品川区東五反田で島津山周辺だと坪単価1億円を超えていた。フェニックスタクシーも比較的立地のいいところに土地を持っていたので担保評価が上がり、金融機関ももっと借り入れないかと融資の勧誘が多かった。はじめの条件はいつも同じで、会社の成長の種になる事業になら投資しその際に資金が必要な場合は融資を受けるということであった。観光バスとかも検討したが、駐車スペースを敷地に確保できる営業所はなかった。借りてまでやっても採算は合わなかった。はじめは洋子と観光バスの件で一度打ち合わせをした。すると、洋子は意外にも賛成だという。「珍しくすんなりと観光バスに賛成したね。」「国内だけでなく海外からのお客様にも受けそうだと思いまして。はとバスも人気がありますでしょ。だから何とかなるんじゃないかと思いました。」「そうか。ただ、駐車スペースが確保できないんだよ。」「それなら、ハイヤーをお辞めになったらいかがですか。実質赤字です。乗務員も確保しなければいけないし、車のグレードもタクシーよりも高級車にしなければならないことから損益分岐点がかなり高いです。」「よく分析しているね。馬込の山口所長と打ち合わせてみるよ。」

 早速はじめは馬込の所長の山口を本社に呼んだ。そして、観光バスについて話をした。ハイヤー事業をどこか別の会社に譲渡して、観光バスをやりたいということを伝えた。ここでは激しい口論となった。「社長、タクシー大手四社であっても、ハイヤーはやっても観光バスなんてやっているところはどこもないですよ。なんでもかんでもどこもやっていないから価値があると考えるのは危険です。再考してください。」はじめも口調が強くなった。「そんな言い方しなくてもいいだろ。そもそもハイヤーが儲かっていないからいつまでもやれないと思っていたからだよ。観光バスの方が抱える乗務員の数も少なくて済むし、平日、休日関係なく安定した需要が見込めるからだよ。旅行代理店と組めば問題はないだろ。」「とにかく私は反対です。私がいかに苦労して大手航空会社と職員用のハイヤー契約をとってきたと思いますか。同業他社からの引き抜き工作にも負けずと当社のために働いてきたことを考えれば、社長は私にそんなことは言えないはずです。」とにかく山口は反対であった。

 ある時、洋子からハイヤー関係の請求金額に問題があり、元受けのウエスターンカンパニーからお金を戻してほしいという連絡があったという報告があった。請求書1年分を訂正したいという内容であった。はじめは、ハイヤー事業を馬込営業所だけでやっていたので、請求業務も一任していた。所長の山口を直ちに呼びつけ事態の説明をさせた。山口は、請求金額の算出の数式に間違いがあったという回答であった。はじめは、洋子に修正業務をさせると言った。しかし、山口はそれを認めなかった。「社長は、私たちのことが信用できないのですか。責任をもってこちらで対応させていただきます。他部署の方に口出しして欲しくない。」かなり語気が荒くなっていた。「ウエスターンカンパニーとの契約書、担当者の名刺、利用時間と走行距離とか一切のデータを私に提出してください。これは社長命令だ。」山口は何も言わずにその場を立ち去った。

 一週間後、はじめは洋子を社長室に呼び提出された書類をもとに請求金額の検証を依頼した。ウエスターンカンパニーの社長にもはじめは直接連絡して、請求金額に疑義が生じており鋭意対応中であるので差額が発生しているようであれば、検証結果が出るまで待って欲しいと伝えた。相手の社長も了承した。

 しかし洋子がいくら検証しても請求金額に誤差はなかった。そのことを社長に報告するとこんな返事が返ってきた。「経理的にどんな不正ができると思う?」「当社側としては売上高の修正をするだけですので、帳簿上はつじつまが合います。ウエスターン側も仕入高の修正ということで問題ないと思います。但し、修正をすればの話です。」「どういうこと?」「当社から出された、修正された請求書を当社と関係のある幹部社員が握りつぶして経理部門に提出せず、当社から振り込まれた差額金を誤入金として預かり金または仮受金として経理処理をします。それを当社に現金で返金したいから出金してくれと経理部門に依頼して、そのお金を着服するといったこともできなくはありません。その際は、当社内部にも仲間がいることになります。」「馬込の山口か。あり得ないことではないな。真相究明にあたって、信頼関係を壊さず真実にたどり着くのには何かいい手はないかな。どう思う?」「だとしたら、ウエスターンカンパニーの社長に協力を要請したらいかがでしょうか。」「それは妙案だ。そうしよう。両社とも関係のない場所で会うのがいいな。久しぶりにdeep seaを使おう。」

 銀座のクラブ「deep sea」に一堂が集まった。ウエスターン社長の杉谷は事情が呑み込めていなかったが、次第に水面下で起きていることを理解した。杉谷は自社の社員に事情説明をさせて、具体的にどこでおかしいと気づいたのか、なぜ1年も気付かなかったのかも確認すると約束してくれた。そこには、もちろん洋子も出席していた。杉谷は、実は洋子のファンでもあった。「社長はお目が高い。笹岡さんはブリザードのボーカルでしたよね?」「ブリザードとは一体何のことですか。」「社長はご存知ないのですか。幻のバンドと言われてまして、アルバム1枚だけリリースして解散したバンドです。音楽番組でも確か一位をとったことがあるくらい当時は売れてました。今日はじめてお会いしましたが、間違いないと確信しました。そうですよね、笹岡さん?」「隠すつもりはなかったのですが、もう過去のことですから。」「ええ、初めて知ったよ。池之嶌なんかはモデルみたいな人が面接希望で来たよとしか言ってなかったから。」「恥ずかしいので、この話題はここまでにしませんか。」はじめは意地悪に「もっと聞かせてよ。芸能界のこととか。」杉谷が洋子のことを気遣い話を変えた。「それは、そうと岩城社長、最近社長が晴海ふ頭あたりで綺麗な人とデートして、キスをしていたとかいう変な噂が流れてましたから気を付けてください。」はじめも洋子も驚いた。あの夜の一回だけのことを誰かに見られていたのだと思った。「洋子さんがかつての人気バンド、ブリザードのボーカルであったという事実は意外にこのタクシー業界で知られつつありますので、マスコミがかつての歌姫のその後ということでゴシップ記事になりやすいです。それでなくても、岩城社長自体が風雲児とか帝王と呼ばれているんだから。二人合わせて特集記事になりますよ。」「気を付けるよ。」はじめもあの夜のことは軽率だったと今思った。途中で杉谷を見送り、引き続き洋子と「deep sea」で話し合った。「あの夜のことは本当に申し訳ない。君がそんな有名人であることも知らなかった。これからは注意するよ。それから、お願いしたいことがあるんだ。」「社長、もしかしたら観光バスの認可のことではないですか。」「そういうところが好きなんだよ。その通り。この請求金額問題も、ことのはじまりは観光バス導入にあたって馬込のハイヤー事業撤退に端を発しているような気もする。いずれにしても俺は観光バス事業をやる。だから大変だけど認可の方も準備を進めて欲しい。」「軽々しく好きだとは言わないほうがいいですよ。それに認可の方はどうしたらいいのか、一度鮫洲の陸運支局に聞きに行ってます。」「私に報告してないだろ?」「報告書を作成している最中に、誤請求問題が起きたからです。まだ報告書は仕掛中です。」「そうだったか。できそうか。」「できるとは思いますが、早くて1年後になると思います。」「分かった。もう帰ろうか。なんか疲れた。」「最近、お酒を飲む機会が増えてますから注意してくださいね。」「ママ、もう帰るからお勘定締めて。」「あんまり綺麗な女性つれてくるから、お店のお客さんがあの子をこっちに連れてきてなんていう人もいらっしゃったのだから。」「うちの総務経理を任せている笹岡洋子さんだよ。」二人は女性同士初対面だが男に依存しないもの同士どこか相通じる部分もあった。

 しばらくしてウエスターンカンパニーの杉谷社長から連絡が入った。「岩城社長、どうやらうちのハイヤー担当と御社の山口所長の間で返戻されたお金を内々で処理して山分けする手筈だったようです。未然に終わりましたが、こちらは懲戒解雇にしました。」「こちらも山口を呼んで確認します。色々ありがとうございました。」

 急遽、山口を呼びつけ詰問した。山口は相手から言われたから従っただけだと言った。はじめは、「ウエスターンの担当者が白状したんだ。男らしく白状したら依願退職で処理してやる。」と山口に言い寄った。それでも言い訳をするので、相手の担当者と社長も呼んで、査問委員会を開いてもいいと言った。さすがに山口も根負けして依願退職することに同意した。事が解決すればそれで終わりではなかった。何年かに一度所長の横領が出てくること自体どうしようもないことなのか悩んだ。洋子に言わせればどんなに偉くなっても所詮人間だからということなのだろう。虚しさしか残らなかった。

 馬込の新所長は、銀行から呼んだ。洋子の調べで、観光バスの認可申請にはかなりのハードルがあると分かった。一般貸切旅客自動車運送事業の経営許可というのが正式名称だが、この申請書作成に一か月はかかること、そして次に社長みずから法令試験を受験し合格しなければならないこと、不合格の場合は再試験があること、現地調査と意見聴取、法令試験合格後に審査がやっとはじまる。ハイヤー事業の売却で駐車スペースを確保する期間を除いても、順調にいっても最短で三か月は覚悟しなければならないことだ。はじめは、観光バス事業を第二の柱にしたいと考え始めていた。1989年大納会の株価は、日経平均3万8915円で頂点に達した。