小説「暗転」~帝王が愛した女~ 15

《第二章 時代の流れ》

 

哀哭(あいこく)

 

 

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 1990年年始から不穏な動きがあった。それは、大発会から株価が暴落しはじめたからだ。大納会で史上最高値を付けたにも関わらずだ。これは完全に予期せぬ事態だった。これから日本経済に起こることを暗示していた。

 はじめは、馬込営業所のハイヤー事業の売却先を探していた。商工銀行の仲介で岡山県にある物流会社に売却先が決まった。売却交渉の間に、洋子は馬込営業所の土地の測量や当初観光バスを二台でスタートさせることなどを事業計画として策定した。売却手続きは、3月末までに完了する内容の契約書にした。岡山県だけでは今後やっていけなくなると危惧した経営者の判断であった。東京で買収したタクシー会社にフェニックスタクシーのハイヤー部門を買収して強固な経営基盤を関東につくりたいと考えていたからだ。更には、フェニックスタクシーからの買収という話題性とブランド力を手に入れ広告宣伝に利用することも目論んでいた。無事に売却手続きが3月末までに完了した。その時の業界新聞には、「フェニックスタクシーに異変、業績悪化が原因かなどと掲載され物議を醸した。」しかし、はじめにとっては好都合だった。他社に観光バス事業の件で邪魔されたくなかったからだ。業績悪化なら水面下で何か新しい事業をやろうとしているとは勘繰らないだろう。

 早速、洋子に売却完了の話を伝え観光バスの認可申請の手続きに移行するよう指示した。巷では株価暴落で動揺が走っていたが、フェニックスタクシーの業績には異常はなかった。鮫洲の陸運支局に洋子は通いつめた。修正箇所等が見つかりその都度再申請した。はじめも、珍しく法令試験に向けて勉強した。社長自ら合格するのが認可の条件だからであった。はじめは洋子を呼んで進捗状況を確認した。「申請書類の準備はできていましたが、タクシーとの兼ね合いから、レイアウト変更があったりしましたので、その部分でタクシーの認可上問題が見つかりました。その部分の再考をし、修正版で申請しましたのでなんとか陸運支局に昨日受理していただけました。」「あとは、私の法令試験の合格だな。久しぶりの試験勉強だから、内のが驚いていたよ。君に受けてもらった方が安心じゃないのだって。」「社長、お言葉ですが試験の開催日は月に一回だけですので、不合格になって再受験となればそれだけ事業化が遅れることになります。」「分かってるよ。恥ずかしいくらいに真面目に勉強しているよ。」

 この年は、株価の変動だけでなく歴史的にも重要な出来事が多発した。5月には、ジャパンマネーを世界に知らしめることになる、ゴッホ「ガシェ博士の肖像」を史上最高値の8250万ドル(約125億円)で日本人が競り落とした。はじめは最初の試験に落ちてしまったので再受験となった。そして翌月受験して見事合格した。観光バスの事業化は10月から可能になる見込みとなった。8月には中東で石油問題をめぐるイラクとクウェートの交渉が決裂。イラク軍がクウェートに侵攻、全土を制圧。国連安保理の緊急理事会がイラクの即時無条件撤退を求める決議を採択といった非常事態が発生した。

 既に株価暴落で痛手を被った機関投資家、銀行、個人と景気に水を差し始める事態にも関わらず官僚主導で誤った金融政策が打ち出された。日銀がインフレ防止のため8月30日に公定歩合を0.75%引き上げ、年6%に引き上げた。これにより一気に景気が減速しはじめた。10月1日に無事に観光バス事業がスタートした。想像を絶する不景気の波を受けるとはその時はまだだれにも分からなかった。同時に株価は1989年12月29日の史上最高値3万8915円から9カ月で約50%下落の2万円割れとなり、時価総額590兆円(世界一)から319兆円に減少した。そして、東西ドイツが統一されたのもこの年であった。

 フェニックスタクシーの観光バス事業は、業界新聞にも華々しく掲載された。馬込営業所の立地は、観光バスに適した場所だった。羽田空港を軸に地方からのツアー客を集め京都や奈良、大阪、岐阜の飛騨高山などへ行きやすかった。また、羽田空港はいずれ国際空港になるだろうという読みもはじめにはあった。そうなると海外の観光客を乗せてツアー企画もしやすいことになる。観光バスの第一便は、京都・奈良のツアーであった。株価の下落は起きていたが個人消費はまだ旺盛だった。タクシーの利用者の減少がはじまり出していた。観光バスの方には目立った影響は見られなかった。観光バスの乗務員もベテランを採用していたので取り敢えず安心だった。色々な企画がフェニックスタクシーには持ち込まれた。そもそも社名にタクシーとついていたので、商号変更した方がいいのではないかという業界関係者も出た。しかし、はじめは父親がつくった会社の名称を変える気はなかった。運行範囲も徐々に広がり、近隣だと草津、軽井沢、伊豆・箱根、静岡、新潟と広がっていった。わずか二台からのスタートとなったが常にフル稼働となった。お年寄りからも好かれる観光バスとなりバスガイドも新卒から採用した。経済の冷え込みを感じながらも、1990年は静かに過ぎた。

 1991年タクシー事業と観光バス事業の本格成長を見据えた経営会議を年始に開いた。会議では業績の報告からはじまり、お客様の動向について詳しく議論された。サラリーマンの利用状況の悪化が目立ち始めていた。法人のチケット利用者に至っては激減していた。その他個人については、長距離が減った程度であった。観光バスは二台しかないこともあり特段の影響は見られなかった。タクシー事業のテコ入れが必要だと出席者全員が認識した。しかし、有効な手立ては見つからなかった。ほんの少しだけ耐えればなんとかなるという情勢ではなくなってきていた。総需要が減少している中でタクシー会社ができることは何もなかった。景気変動には逆らえなかった。

 観光バス事業は意外に好調であった。そのため、乗務員やバスガイドの過労に気づかなかった。そして6月に事故が発生した。軽井沢へ向かう途中軽井沢バイパス塩沢交差点を右折する際に、居眠り運転が原因で観光バスが横転してしまった。大惨事となり、負傷者多数、死者2名の事故となってしまった。連日テレビ報道があり、はじめも陸運支局への報告、遺族への謝罪など寝る暇もなかった。テレビでの記者会見も生まれてはじめて行った。かなりのバッシングがある中で精一杯謝罪した。洋子も会社の一大事と思い力の限り対応した。記者会見も無事に終えテレビ局の地下駐車場へ向かっている途中に悲劇は起きた。はじめは突然、洋子にもたれるように倒れてしまった。「社長、しっかりしてください。どうしたんですか。」洋子は気が動転して自分でも何が起きているか分からなかった。すぐさま救急車が呼ばれ聖路加病院へ緊急搬送された。診断の結果は、脳梗塞だった。一か月間意識は戻らなかった。妻啓子と洋子はともに毎日病院に見舞いにきた。二人とも顔を合わせるといつも涙が出た。「主人があなたに信頼を寄せたのも今なら分かるような気がする。綺麗なだけではない優しさと情の深さがあるから。そして本当に主人のことを心配しているのが私には痛いほどよくわかるから。」「奥様、今は回復することだけを祈りましょう。私たちにできることはそれだけです。それと会社の方が混乱していますので、一度奥様から役員・幹部一同に状況報告と暫定的にせよ決済をどうしていくかご説明していただけませんか。」「分かりました。笹岡さん助けてくれるわよね。」「もちろんです。」暫定的に取締役会で代表取締役が選任されたが、重大な決定には妻啓子の承認が必要とされた。

 そして、はじめの意識は回復した。多少呂律が回らなかったが、半年もすれば今まで通り話せるようになるだろうという医師の診断であった。体の他の部位には不随のような症状が見当たらなかった。まさに奇跡といっていいほどであった。しかし、啓子も洋子もなぜか今までのはじめとは違うものを感じていた。フェニックスタクシーにとっても日本経済にとっても1991年は試練のはじまりの年だった。

                               ―第二章 完―