小説「暗転」~帝王が愛した女~ 17

《第三章 瓦解》

 

開闢(かいびゃく)

 

 

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 1994年、フェニックスタクシーの業績は下降線をたどる一方だった。既に100億円を超えていた売上高は80億円台になっていた。フェニックスプロモーションは、一円たりとも売上を計上することなく、ただ経費の垂れ流しが続いた。それに対して、洋子は顧問税理士の赤池に相談した。「この会社をこのまま存続させれば、取り返しのつかない事態になります。先生の方から社長に進言していただけないでしょうか。」「笹岡さん、社長はそれでもいいとおっしゃっているから仕方ないですよ。私たちは、雇われの身なのだからそれに従うだけです。フェニックスプロモーションだってできて間もない会社なんだし5年は様子を見たらどうですか。あまり性急に結論を出さないほうがいいですよ。」

 観光バス事業は、あの事件以来都内の観光だけしか仕事の依頼がこなくなり慢性的な赤字事業になっていた。大手四社は積極的に販路を拡大していった。はじめは、退院してからというもの、タクシー関係者の会合には一切出席しなくなった。会社の内部に籠るような人間になっていた。以前なら自分の知らない業種の方たちとも精力的に会うようにしていた。はじめの口癖も「そのうちなんとかなるから焦るな」になった。病気後はじめは全くの別人になってしまった。赤木は世界的なプロモーターという触れ込みだったが、キューバ大使館やベネズエラ大使館にツテがあった。その関係で大使館のハイヤーをやれないかとはじめに話を持ち込んだ。はじめは、即座に了承した。直ちに、練馬営業所にハイヤー事業部を作らせた。もちろん洋子は反対した。馬込でうまく行かなかったからだ。ハイヤーは構造的に儲からないのをはじめも理解していたはずだ。はじめは、ボクシング事業で売上がたたないことを気にして、赤木が見つけてきてくれたビジネスを形にしたかっただけだ。洋子が心配して助言しても聞き入れてはくれなかった。

 練馬営業所のハイヤー担当は鍵谷課長になった。社長からの信頼も厚い男だった。ハイヤーは2台でスタートした。はじめ自身もそれ以上増やすつもりはなかった。大使館用ということで車種はベンツにした。かつての斬新さはないが、歯止めもなくやるわけではなかったので、洋子は取り敢えず様子を見ることにした。はじめも人の意見に耳を傾けなくなったので、会社内は閉塞感が出始めていた。裸の王様に、はじめは成り下がっていた。まるでフェニックスタクシーの独裁者のような振る舞いだった。

 月に一回の所長会議は、業績の報告だけに終始し、現状打破のための建設的意見はなにも出なかった。このような状態がしばらく続いた。相変わらず、プロモーターの赤木と銀座のクラブ「deep sea」には入り浸っていた。「やっと社長にいい報告ができそうです。キューバの世界チャンピオンと日本の世界ランカーのタイトルマッチが後楽園ホールでできそうです。もちろん、フェニックスプロモーションでマネージメントします。世界チャンピオンは私が呼んでます。ボクサーパンツに当社の社名を入れて宣伝できます。あまり儲かりませんが、名前だけは売ることができます。テレビ中継も決まってます。」「それはいい報告です。内部で悪くいうのが多くなってきたからちょうど良かった。乾杯しよう。ママ、ドンペリをお願い。」「社長、ドンペリだなんて久しぶりね。なにかいいことでもあったの。」「やっと、ボクシングのプロモートができそうなんだ。」「赤木さんが貢献したのかしら。」「そうだとも。これをきっかけにフェニックスタクシーの反撃開始と行こうじゃないか。」赤木は話を続けた。「社長のところにいらっしゃる笹岡さんは、かつてブリザードというバンドでボーカルをやっていて有名な方だったという話を芸能プロダクションの方から聞きました。その後の彼女ということで、特集記事を組みたいそうですよ。どうしますか。上手く私が間を取り持ちますが。」「そうか、そんな話があるのか。彼女に聞いてみよう。承諾するかな?」はじめは、仕事一筋で生きてきた男なので世間知らずであった。「deep sea」のママと赤木は出来ていた。はじめから巧妙に自分たちにお金を還流させるための罠を張り巡らせていた。ボクシング事業の売上は全く計上される見込みがなかった。疑問を持つものが多かったが、そのことを社長に伝えると解雇された。フェニックスプロモーションにお金が合法的に流れるような仕組みができたばかりに、フェニックスタクシーの業績も低迷さに拍車がかかった。

 1994年10月後楽園ホールで世界戦が行われ、はじめは有頂天だったが、収支は散々たる結果であった。洋子は、世界戦の収支結果を社長に報告した。「世界チャンピオンに対する協賛金300万円とプロモート手数料の差し引きだけでも200万円の赤字です。手数料が100万円しか入らないのならやる意味がありませんよ。」「差し引き200万円で会社名が世間に売れたなら安いもんじゃないか。」「そういう問題じゃありません。その他会社の業績も見て下さい。このままでいくと10年後は赤字に転落してしまいます。」「まだ黒字ならそんなに慌てなくても大丈夫だよ。それと君さえ良ければ、君の特集記事をやりたいという話が来ている。会社のために協力してくれないか。」「もう芸能界を捨てた身です。それでも社長が受けて欲しいと言われるのであれば、会社のために受けてもいいです。その代わりもっと真剣に業績のことを考えて下さい。」「分かった。久しぶりだな。君と喧嘩せずに話ができたのは。赤木が持ってきた話だから、君の了承を得たと伝えるよ。」洋子は、赤木の名前が出たので少し不安になった。

 洋子は34歳になっていたが華のある女だった。バツイチだが配慮があり人気もあった。おまけに独身を貫いていた。男の噂が珍しくない女だった。

 取材は11月下旬からはじまり12月上旬まで続いた。本社と丸の内、晴海ふ頭で写真撮影が行われた。フェニックスタクシーの車も写真には収められ、必ず洋子とセットで写された。新年号の特集記事になる予定であった。

 年が明け、洋子とフェニックスタクシーが載った特集記事が出ると瞬く間に時の人になった。はじめは、自分のことのように喜んだ。問い合わせも無線室にも入る有り様だった。いくばくか売上に貢献した。その裏で赤木は出版社からの手数料をピンハネしていた。このような話題づくりも業績を変えるには力不足であった。そんな中で、阪神・淡路大震災が1995年1月17日に起きた。だれにも予測がつかない出来事であった。洋子の話題も一瞬にして打ち消した。

 その後もボクシング事業も観光バス事業も赤字のままダラダラと続けられた。ただ惰性で経営を続けていた。タクシー事業の売上は毎年3億円ずつ減少していた。

 ハイヤー事業では担当の鍵谷課長が、乗務員に支払われる給与を実際よりも少なく支払い、差額を自分の懐に入れているのが判明し事件となった。鍵谷は懲戒解雇となった。はじめが信頼していただけに相当ショックが大きかった。今までは、移動に電車か自社のタクシーを利用していたが、もう一台自分用のベンツを買い乗務員から気に入ったものを社長の運転手とした。

 もうそこには、かつてのタクシー乗務員の地位向上を考え、お客様の利便性を考えてダイナミックに経営をする姿勢はなかった。タクシー料金の決済は現金が主流だったが、大手四社はクレジット決済も可能な端末をこの年から導入しはじめた。関東無線もこれに追随した。この情報がはじめの耳に入っても、はじめはクレジットカード決済にすれば、それだけ資金回収まで一か月以上かかる上、手数料も取られるから必ず後悔することになると言って相手にしなかった。しかし、乗車の際にはクレジットカードが利用できるかどうか聞いてくる客が増えてきていた。フェニックスタクシーは相変わらずの現金決済だったので乗車の際に断られるケースも出始めていた。決済方法がこれからは多岐に渡ると、大手四社は既にマーケティングにより結論づけていた。決済端末は1台当たり20万円はかかるが、必要な設備投資と考えた。はじめは、決済方法が多くなったところで売上があがるわけではないのだから無駄な投資だと考えていた。確かに、その通りであったが、洋子はその時はじめの経営の弱点を痛感した。守りに弱い経営なのだと。売上げを上げるための方法とは言えないが、クレジットカードが使えないことによる機会損失について考えを及ぼすことができなかった。洋子は、はじめにそのことを伝え、いずれ売上を押し下げることになるので、今からでも遅くないので導入すべきだと進言した。しかし、はじめは取り入れなかった。業界を牽引していた岩城はじめではなくなっていた。

 バブル崩壊の余波は、タクシー業界、とりわけ中小の企業には重くのしかかっていた。不動産投資にどっぷり浸っていた経営者も多数おり、倒産しそうな会社が続出した。クレジットカード端末機の導入も出来ないところは大手四社に買収されていった。そうしてますますフェニックスタクシーとの差は開いていった。はじめはただ傍観するだけだった。