小説「暗転」~帝王が愛した女~ 20

《第三章 瓦解》

 

虚無(きょむ)

 

 

f:id:ogoesamurai:20181113085604p:plain

 

 今までどんな困難なことがあっても、必ずアイディアを出して一人で乗り切ってきたはじめであったが、病気の後は弱気で突き進む力が無かった。そんなはじめの状態が経営成績にも顕著に現れた。荻窪営業所を手放したことが相当堪えていた。こんな状況でも顧問の赤池裕一は何もアドバイスは言わず、受け身に徹していた。洋子は赤池が送り込んだ経理課長にも不審を抱いていた。会社の内部事情が逐一赤池に報告されているようだった。洋子は以前にもまして仕事がしずらくなっているのを感じていた。洋子は、はじめに対して普段通りの対応を心がけていた。熱海の件は忘れることにした。

 「社長、今月の業績の報告に参りました。」洋子は社長室に入室した。「どうせまた悪いんだろ。もう見たくないよ。」「それなら、見たくなるような業績にするのが社長の仕事です。」「相変わらず手厳しいなあ。なんとかできるものなら何とかしているよ。」「すいません。言い過ぎました。」「いや、いいんだ。君のいう通りだし、少し気が紛れるから。分析結果と傾向について詳しく聞こう。」「乗務員数の減少からくる稼働率の低下、一台当たりの走行距離の低下、荻窪営業所売却後を考慮しても売上は40億円を維持するのがやっとです。このままだと2005年あたりから赤字に転落します。」「乗務員の採用関係は、営業所長任せだったな。そこに、メスを入れるしかないな。あとは、不採算なものを辞めたり、また営業所を売ってしまうか。もうこれ以上縮小だけはしたくない。ここんとこ何やっても上手く行かないな。それに比べ、大手4社は上手くやってるよな。所詮、俺はここまでの男だったのか。」次第にはじめの声が荒々しくなってきた。「大手4社もダメージは受けてます。業界トップの大日本帝国自動車も、営業所の統廃合を進めるそうです。」「誰から聞いたの?」「社労士の久保田先生から聞きました。タクシー業界では有名な先生だから、あちこちにアンテナがあるみたいです。」「営業所の統廃合?もっと詳しく聞かせてくれないか。」「50台から80台の小規模な営業所は、営業所の土地不動産を売却して、タクシーをもっと大きな営業所に寄せるようです。売上を落とさず、経費を下げることができるので有効な方法だと思います。もともと1営業所あたり200台はあったりしますから、営業所の大規模化と営業所の建物を建て直しをして、賃料も多く取れるように経営そのものを変更するようです。」「そこだけ見ればいいように思えるよ。人の心はそんなに簡単には割りきれないよ。乗務員というのは、自宅から近いところで働きたいはずだよ。勤務体系を見ても分かるだろう。隔勤、日勤、定時制、体に負担がかかるから家ですぐゆっくりしたいはずだよ。」しかし、はじめの考えとは裏腹に、大手四社は営業所の統廃合を乗務員の退職を誘発させることなく進めた。ブランド力と安定性があり、上場会社に対してチケット制が数多く導入されているのも魅力的だった。バブルが崩壊したからと言って、会社員がタクシーを使わなくなることはなかった。

 フェニックスタクシーとりわけはじめの守りの弱さが出ていた。過去にもそうであったように病気のせいだけではなく、はじめは攻めることに力を発揮するタイプの経営者だった。大手四社は着々と時代の変化に合わせて構造改革を断行していった。賃金規定の変更も労働組合と争議になりながらも稼げる乗務員の歩率を高くし、そうでない乗務員のは低くした。はじめはこの右肩下がりの経済をこれまで経験したこともなく、経営のブレインと言えば顧問税理士の赤池か洋子しかいなかった。いささか力と経験不足であった。

 特段何か手を打つことなく時間だけが過ぎて行った。はじめと啓子の長男、直久も2003年には高校生になっていた。学校でのいじめが原因で、家に引きこもるようになりはじめも厳しく叱るようになっていた。「お前がついていながら直久は何をやってるんだ。俺の跡取りだぞ。情けなくて腹ただしい。」「あたしの力だけではどうにもなりません。」はじめは公私ともに追い込まれていた。なんとか、直久は大学には合格した。その年2005年にはフェニックスタクシーは設立以来初めての赤字決算となった。金融機関からの新たな合理化策を含めた事業計画書の策定を求められた。はじめのプレッシャーはかなり大きなものだった。その時、またはじめを不幸が襲った。脳梗塞が再発したのだ。家で入浴後エアコンの風を浴びながらくつろいでいる時に、突然目の前が回るような感じになり真っ暗となり倒れた。救急車が呼ばれ緊急搬送された。啓子は洋子に電話し病院に来て欲しいと頼んだ。洋子も不安になり駆け付けた。意識は混濁していたが、緊急の検査と手術を行うことになった。何とか一命はとりとめたが、意識の回復を待ってから様子を見るということになった。「笹岡さん、もし何かあったらどうしましょう。」「今はただ様子を見守るときです。意識の回復を待ってから考えましょう。」前回の発作とは違い翌日には意識が戻った。多少の言語障害と右手、右足に不自由さは残ったが。ただ意識障害だけは以前よりひどくなった。

 職場復帰は早かったが、会社もはじめ個人も以前の輝きはなく凋落ぶりは否めなかった。そんな弱ったはじめに、赤木は付け込みはじめた。ボクシングジムをはじめたいと提言した。ライセンスを取得し練習生も募集し興行も行うというものだった。この頃になるとはじめは完全にやる気を無くしやぶれかぶれになっていた。馬込営業所で倉庫兼事務所として使っていた建物を赤木の好きなように使わせることに合意した。ジムの名称は「ヴェロス」という名前にした。そこには、リングも用意されそのお金は、フェニックスタクシーからフェニックスコーポレーションに流すことで賄われた。不動産市況に明るい話題も出ていたこともあり、金融機関は一転融資の姿勢も見せ始めた。2006年のことだった。赤字脱却の方策も見出せない中での融資だった。不動産の時価が上昇していたので、担保評価が上がったことが理由のようだった。洋子は、業績の回復方法が確立していない中での新規事業や借入には反対したが、はじめは全く聞かなかった。赤木はツテのある大使館にはじめを連れて行っては領事に合わせ、はじめの虚栄心をくすぐった。はじめは絶望的な中でも、側にいて良くしてくれる赤木を信頼した。ボクシング関係の費用に湯水のごとくタクシーのお金が使われていった。海外にも頻繁に行くようになったし、会社の経費で毎晩飲み食いした。赤木が牙をむき始めたのだ。息のかかった飲食店に連れて行っては、上前をはねた。洋子は、はじめに規律を取り戻してほしかったため、妻の啓子にも相談し赤木との関係を断つように迫った。口では分かったような返事をするがはじめは直そうとはしなかった。そして、赤池ははじめの子の直久に近づいていった。はじめの家族全員を食事に招待しては親睦をはかった。はじめの健康状態を考えれば次期社長の直久を味方につけておくことが先決と考えたのだ。社内外ではじめは包囲されていた。そんな放漫経営が続けられる中で、2008年に米国発のリーマンショックが世界中を走った。軒並みどの企業も影響を受け、中小企業では売り上げが半減するところも続出し倒産が相次いだ。フェニックスタクシーも大きく影響を受け金融機関からは返済を求められた。

 2009年にはタクシー業界にとって激変の年となった。政府が業界に対して再規制をかけたのだ。2002年に国がタクシーの新規参入や増車、運賃の規制を緩和した結果、タクシーの台数が増え、競争が激化し、運転手の労働条件悪化や渋滞などの問題が生じた。改善策として、新規参入や増車の条件を厳しくしたり、増車した会社には法令違反への罰則を重くしたりする特別措置法がつくられ、2009年10月から施行された。これは、フェニックスタクシーにとってはチャンスだった。赤池がはじめに金融機関から返済を求められているならタクシーの営業権を売却して財源を確保したらいいと言ってきた。稼働率の低下している営業所の営業権の売却を検討し、破格の条件を提示した大日本帝国自動車に100台分譲渡することにした。赤池にも手数料として10%支払う約束をした。死臭が漂いはじめたフェニックスタクシーにハゲタカが群がり出していた。はじめの体は回復するどころかますます言葉が上手く出せなくなってきていた。その状態に対して時として怒りから周りに当たり散らしたり、突然泣いてみたりと手の付けようがなくなっていた。洋子は側でその様子を見ながら何もできない自分の無力さを実感していた。この年はもう一つの節目の年でもあった。はじめの長男の直久が会社に入社した年でもあった。取締役営業部長という肩書であった。2005年から始まった赤字体質は悪化の一途を辿っていた。短期借入がほとんどであったので更新のたびに金利が高くなっていた。直久は乗務員集めに高額な手数料がかかるエージェントを使用し広告宣伝費を惜しみなくかけた。費用対効果のない経費の使い方に洋子が助言すると社長の承諾を得ていると回答してみせた。赤池は直久の性格を見抜いていたのでどんどん経費を使うことを奨励した。あとは私がなんとかするから心配するなというのが口癖であった。いじめにあって引きこもるような性質なので、煽てられるとその気になり権力によって人を服従させることに酔いしれるところがあった。そして、2009年秋はじめは三度目の脳梗塞を起こし言葉を失った。筆談でやり取りをし秘書として洋子が任命された。はじめが社内で信用するのは洋子と赤木だけになっていた。自分の息子でさえ赤池と組んで自分を追い出そう考えていると勘繰った。この人間関係の悪化が会社の業績の回復の芽を断ち、社内では社長派と次期社長派に二分され派閥争いが労働組合も入って起きていた。働くモチベーションは低下しますます営収が落ちた。会社の預金も底を尽きかけ別の金融機関から土地を担保に借入を繰り返した。そして、公租公課に滞納が始まったのもこの年からであった。

                               ―第三章 完―